「先生と私」の3:それから二、三日たった後のことでしたろう、奥さんとお嬢さんは朝から市ヶ谷にいる親類の所へ行くと言ってうちを出ました。Kも私もまだ学校の始まらないころでしたから、留守居同様あとに残っていました。私は書物を読むのも散歩に出るのもいやだったので、ただ漠然と火鉢の縁に肱をのせてじっと顋を支えたなり考えていました。隣の部屋にいるKもいっこう音を立てませんでした。双方ともいるのだかいないのだか分からないくらい静かでした。もっともこういうことは、二人の間柄としてべつに珍しくもなんともなかったのですから、私はべつだんそれを気にもとめませんでした。十時ごろになって、Kは不意に仕切りの襖をあけて私と顔を見合わせました。彼は敷居の上に立ったまま、私に何を考えていると聞きました。私はもとより何も考えていなかったのです。もし考えていたとすれば、いつものとおりお嬢さんが問題だったかもしれません。そのお嬢さんにはむろん奥さんもくっついていますが、近ごろではK自身が切り離すべからざる人のように、私の頭の中をぐるぐるめぐって、この問題を複雑にしているのです。Kと顔を見合わせた私は、今までおぼろげに彼を一種の邪魔もののごとく意識していながら、明らかにそうと答えるわけにいかなかったのです。私は依然として彼の顔を見て黙っていました。するとKのほうからつかつかと私の座敷へ入ってきて、私のあたっている火鉢の前に座りました。私はすぐ両肱を火鉢の縁から取り付けて、心持ちそれをKの方へ押しやるようにしました。Kはいつもに似合わない話を始めました。奥さんとお嬢さんは市ヶ谷のどこへ行ったのだろうと言うのです。私はおおかた叔母さんの所だろうと答えました。Kはその叔母さんはなんだとまたききます。私はやはり軍人の細君だと教えてやりました。すると女の年始はたいてい十五日過ぎだのに、なぜそんなに早く出かけたのだろうと質問するのです。私はなぜだか知らないと挨拶するよりほかにしかたがありませんでした。(つづく)(夏目漱石)
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