2003年6月
2003年6月の中訳の優秀答案当選者5名:松村奈穂子(奈良市) 薛紅玲(千葉県)田村紀子(福島県)村井康子(大阪市)
原文:「子供の胸に『生ワクチンを』と書いたエプロンをつけ、国会へ陳情した母親たち」。1961年6月14日付本紙の写真説明だ。ポリオが全国で猛威を振るっているのにワクチンがない。母親に抱かれた幼児は3歳くらいか。その子が42歳になって、日本を含む西太平洋地域でポリオの根絶を告げる世界保健機構(WHO)の京都宣言が発表されたのだから、こんなにおめでたいことはない。戦前から戦後にかけての大流行がうそのようだ。ポリオの患者数は46年に急上昇し、全米で52年に5万8000人に達した。同じ年、欧州、アジアに波及、日本では59年から61年にかけて大流行した。国産と輸入のソークワクチンでは間に合わない。「一日も早く生ワクチンを」という大合唱がわき起こった。後手に回った政府は61年、視察団を欧米に急派して、生ワクチンの研究を開始した。千葉大学医学部の安村美博(よしひろ)さん(現・独協医科大学名誉教授)は、サルの腎臓の組織を使えばポリオウイルスが増えるのではないかと考えた。しかし、うまくいかない。寝ても覚めてもサルの腎臓の細胞のことばかり。18回目の挑戦でサルの腎臓細胞が順調に増殖しはじめた。村さんはこの細胞をエスペラントの緑(ベルダ)と腎臓(レノ)を合わせて、ベロ(VERO)と命名した。80年代にはフランスでベロを使ってポリオウイルスの大量生産がはじまった。日本でも、ベロ細胞によるワクチンづくりが進められているそうだ。
参考译文:“孩子的胸前写着"我们要活疫苗!'的字,系着围裙向国会请愿的母亲们”。这是日期为1961年6月14日的本报的图片报道的文字说明。小儿麻痹症当时正在全国肆虐但是却没有疫苗。母亲怀抱里的幼儿那时大概3岁左右。这个孩子到了42岁的今天,WHO终于发表了包括日本在内的西太平洋地区与小儿麻痹症彻底诀别的京都宣言,没有比这更值得庆贺的事情了。从战前大流行直到战后的小儿麻痹症如今简直就象谎话似的无法想像。1946年,小儿麻痹症的患者数急剧上升, 1952年在美国全国患者揄チ到了5万8千人。同年,波及到了欧洲和亚洲。在日本,从1959年到1961年,小儿麻痹症肆虐全国。当时无论是国产或是进口的索耳克氏疫苗都供不应求。“早日研制出活疫苗”的呼声大大高涨。陷于被动的日本政府在1961年向欧美紧急派遣了视察团,开始研制活疫苗。千叶大学医学部的安村美博氏(现独协医科大学名誉教授)认为如果使用猴子的肾脏组织,小儿麻痹病毒也许会揄チ。然而,进展并不顺利。无论是梦中还是现实,安村氏满脑子想的都是猴子的肾脏细胞。经过18次的挑战,猴子的肾脏细胞终于开始顺利繁殖了,安村氏把这种细胞称为VERO,这个单词是由世界语(ESPERANTO)的"绿(VERDA)"和"肾脏(RENO)两个单词组合而成的。80年代,法国使用VERO开始大批量生产小儿麻痹疫苗。据说在日本也正在利用VERO生产疫苗。(翻译者:松村奈 |