2015年11月の優秀答案当選者5名: ★吉川瞳、本田真一、田村美喜、富田江美、劉晋明
「家(上)の11」:この室内の空気は若い正太に何の興味をも起させなかった。彼の眼には、すべてが窮屈で、陰気で、物憂いほど単調であった。彼は親の側に静止(じっと)していられないという風で、母が注いで出した茶を飲んで、やがてまたぷいと部屋を出て行って了(しま)った。達雄は嘆息して、「三吉さん、お前さんの着いた日から私は聞いてみたい聞いてみたいと思って、まだ言わずにいることが有るんですが……お前さんが持っているその時計ですね……」「これですか」と三吉は兵児帯(へこおび)の間から銀側時計を取出して、それを大きな卓の上に置いた。「極く古い時計でサ、裏にこんな彫のしてある――」「実はその時計のことで……」と達雄は言淀(よど)んで、「正太を東京へ修業に出しました時に、私が特に注意して、金時計を一つくれてやったんです――まあ、そういう物でも持たしてやれば、普通の書生とも見られまいかと思いまして――ネ。ところが一夏、彼が帰って来た時に、他の時計をサゲてる。金時計はどうしたと私が聞きましたら、友達から是非貸してくれと言われて置いて来ました、そのかわり友達のを持って来ました、こう言うじゃありませんか。どうでしょう、その友達の時計が今度来たお前さんの帯の間に挾まってる……」 三吉は笑出した。「一体これは宗さんの時計です。近頃私が宗さんから貰ったんです。多分正太さんも宗さんから借りて来たんでしょう」 達雄はお種と顔を見合せた。宗さんとは三吉が直ぐ上の兄にあたる宗蔵のことである。「どうも不思議だ、不思議だと思った」と達雄が言った。「三吉の方が正直なと見えるテ」とお種も考深い眼付をする。 金側の時計が銀側の時計に変ったということは、三吉にはさ程不思議でもなかった。「正直なと見えるテ」と言われる三吉にすら、それ位のことは若いものに有勝だと思われた。達雄はそうは思わなかった。 「島崎藤村「家(上)の11」 |