「舞姫の7」: 今までは瑣々(さゝ)たる問題にも、極めて丁寧にいらへしつる余が、この頃より官長に寄する文には連(しき)りに法制の細目に拘(かゝづら)ふべきにあらぬを論じて、一たび法の精神をだに得たらんには、紛々たる万事は破竹の如(こと)くなるべしなどゝ広言しつ。又大学にては法科の講筵を余所(よそ)にして、歴史文学に心を寄せ、漸く(やうやく)蔗(しよ)を嚼(か)む境に入りぬ。官長はもと心のまゝに用ゐるべき器械をこそ作らんとしたりけめ。独立の思想を懐(いだ)きて、人なみならぬ面(おも)もちしたる男をいかでか喜ぶべき。危きは余が当時の地位なりけり。されどこれのみにては、なほ我地位を覆(くつが)へすに足らざりけんを、日比(ひごろ)伯林(ベルリン)の留学生の中(うち)にて、或る勢力ある一群(ひとむれ)と余との間に、面白からぬ関係ありて、彼人々は余を猜疑(さいぎ)し、又遂(つひ)に余を讒誣(ざんぶ)するに至りぬ。されどこれとても其故なくてやは。彼人々は余が倶(とも)に麦酒(ビイル)の杯をも挙げず、球突きの棒(キユウ)をも取らぬを、かたくななる心と慾を制する力とに帰して、且(かつ)は嘲(あざけ)り且は嫉(ねた)みたりけん。
(森鴎外 舞姫 2014年5月の優秀答案当選者4名: ★伊藤佐和子、凌炎、劉艶美、田中美恵子、太田貞子 |