日本にある三大中華タウンの3:長崎新地中華街
凌炎
長崎県長崎市新地町に形成された中華街です。江戸時代の元禄(1688〜1704)に、対中貿易港として認められ、最盛時1万人の福建省出身の中国人が住んでいました。当事、長崎の人口は7万人。その時、貿易船が入らなかった時期に出島で住んでいたオランダ人はわずか15人でした。その後、中国人は丘陵地の唐人屋敷に限定されました。1698年大火災で唐人屋敷の前の海の埋め地で倉庫群を作って、「新地」と呼ばれました。その後、中国人は唐人屋敷を放棄し、交通便利の新地に集中していきます。そして新地中華街が形成されました。新地中華街は、横浜中華街、神戸南京町とともに日本三大中華街と称されます。南北250メートルの十字路には長崎市の姉妹都市である福建省福州市の協力によって石畳が敷かれ、中華料理店や中国雑貨店など約40軒が軒を連ねています。中華街の四方には中華門が立てられ、町はアーチ型のイルミネーションで飾られています。毎年春節時には湊公園でランタンフェスティバルが開催されています。所在地である新地区域の中国人の人口は6000人を超えています。約0.9平方キロ,約250メートルの四方、南北の大通りは約250メートルのエリア内に40店以上の店舗があり、日本第3の中華街となっています。!
日本にある三大中華タウンの1:横浜中華街
横浜中華街は、1859年に横浜港が開かれる前、中華街の周辺は外国人商人が住み所。1866年(慶応2年)横浜新田慰留地の基礎で関帝廟と中華会館が建築されました。明治元年の1868年は中国人1000人、1900年は5000人。大正12年(1932)年9月1日、関東大震災が発生し、中華街が壊滅されました。軍隊の「戒厳令」により、沢山の中国人も殺されました。昭和に入ると中国人は3000人回復。昭和12年〜20年、戦時状態でぼろぼろになっていました。東京大空襲により焼け尽くされで焼け野原となりました。戦後、関帝廟と中華学校が再建されました。1955年「善鄰門」を建設。1955年以前は唐人町や南京町と呼ばれてましたが、1955年以後、中華街を正式名前になりました。。華僑の出身地は広東省が比較的多いが、中国各地に分散している。上海路、中山路、福建路など、地名を冠した路地が交差しており、各路地には、当該地の出身者が多い。所在地である中区の中国人の人口は6000人を超える。約0.2平方キロのエリア内に500店以上の店舗があり、日本最大かつ東アジア最大の中華街となっている。
日本にある三大中華タウンの2:神戸南京町
神戸市中央区の元町通と栄町通にまたがる狭いエリアの通称で、正式な地名ではありません。「南京町商店街」の登録商標でもあり、中国風の意匠を特徴とするチャイナタウンでもあります。日本三大チャイナタウンの一つに数えられ、東西約200m、南北110mの範囲に100あまりの店舗が軒を連ねています。店頭の路上で点心、スイーツ、食材、記念品などを売る店も多く、休日は地元の買い物客や観光客で賑わいます。「南京町」という用語はかつて中国人街を指す一般名称であった。しかし、そのほとんどは戦後に改称したため、現在では事実上神戸のこの地区のみを指す固有名詞となっています。南京町の中央通りは、十字路になっていて中央の広場には「あずまや」、東は「長安門」、西は「西安門」、南は「南楼門」という名前の門があり、北は元町商店街につながっています。午前10時頃から開店しますが、車両通行禁止になる午前11時までは納品車両が行き交うので歩行には注意が必要です。日が暮れて夜になると「長安門」や「あずまや」はライトアップされます。現在在住の華僑の人々は横浜華僑6000人に対して神戸華僑はその倍近い1万人を超えているといわれます。しかし、横浜中華街と比べると神戸南京町は規模が随分と小ぶりです。実際に生活の場でもある横浜中華街と違い、神戸の南京町には居住者は少なく、ほぼ純然たる商業地となっているためでしょう。
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