2016年5月の優秀答案当選者5名: ★熊谷鐘蘭、小西楽平、王若薇、伊藤佐和子、佐々木真由美
「太宰治「斜陽」の5」何か、たまらない恥ずかしい思いに襲われた時に、あの奇妙な、あ、という幽かな叫び声が出るものなのだ。私の胸に、いま出し抜けにふうっと、六年前の私の離婚の時の事が色あざやかに思い浮んで来て、たまらなくなり、思わず、あ、と言ってしまったのだが、お母さまの場合は、どうなのだろう。まさかお母さまに、私のような恥ずかしい過去があるわけは無し、いや、それとも、何か。「お母さまも、さっき、何かお思い出しになったのでしょう? どんな事?」「忘れたわ」「私の事?」「いいえ」「直治の事?」「そう」 と言いかけて、首をかしげ、「かも知れないわ」 とおっしゃった。 弟の直治は大学の中途で召集され、南方の島へ行ったのだが、消息が絶えてしまって、終戦になっても行先が不明で、お母さまは、もう直治には逢えないと覚悟している、とおっしゃっているけれども、私は、そんな、「覚悟」なんかした事は一度もない、きっと逢えるとばかり思っている。「あきらめてしまったつもりなんだけど、おいしいスウプをいただいて、直治を思って、たまらなくなった。もっと、直治に、よくしてやればよかった」 直治は高等学校にはいった頃から、いやに文学にこって、ほとんど不良少年みたいな生活をはじめて、どれだけお母さまに御苦労をかけたか、わからないのだ。それだのにお母さまは、スウプを一さじ吸っては直治を思い、あ、とおっしゃる。私はごはんを口に押し込み眼が熱くなった。「大丈夫よ。直治は、大丈夫よ。直治みたいな悪漢は、なかなか死ぬものじゃないわよ。死ぬひとは、きまって、おとなしくて、綺麗で、やさしいものだわ。直治なんて、棒でたたいたって、死にやしない」 お母さまは笑って、「それじゃ、かず子さんは早死にのほうかな」 と私をからかう。「あら、どうして? 私なんか、悪漢のおデコさんですから、八十歳までは大丈夫よ」「そうなの? そんなら、お母さまは、九十歳までは大丈夫ね」「ええ」 と言いかけて、少し困った。悪漢は長生きする。綺麗なひとは早く死ぬ。お母さまは、お綺麗だ。けれども、長生きしてもらいたい。私は頗るまごついた。「意地わるね!」 と言ったら、下唇がぷるぷる震えて来て、涙が眼からあふれて落ちた。 「太宰治 「斜陽」の5」 |