2014年8月の優秀答案当選者5名: ★凌炎、★伊藤佐和子、高一輝、田上博美、山本信弘 「舞姫の10」:今この処を過ぎんとするとき、鎖(とざ)したる寺門の扉に倚りて、声を呑みつゝ泣くひとりの少女(をとめ)あるを見たり。年は十六七なるべし。被(かむ)りし巾(きれ)を洩れたる髪の色は、薄きこがね色にて、着たる衣は垢つき汚れたりとも見えず。我足音に驚かされてかへりみたる面(おもて)、余に詩人の筆なければこれを写すべくもあらず。この青く清らにて物問ひたげに愁(うれひ)を含める目(まみ)の、半ば露を宿せる長き睫毛(まつげ)に掩(おほ)はれたるは、何故に一顧したるのみにて、用心深き我心の底までは徹したるか。 彼は料(はか)らぬ深き歎きに遭(あ)ひて、前後を顧みる遑(いとま)なく、こゝに立ちて泣くにや。わが臆病なる心は憐憫の情に打ち勝たれて、余は覚えず側に倚り、「何故に泣き玉ふか。ところに繋累(けいるゐ)なき外人(よそびと)は、却(かへ)りて力を借し易きこともあらん。」と言ひ掛けたるが、我ながら我が大胆なるに呆(あき)れたり。彼は驚きて我が黄なる面を打守りしが、我が真率なる心や色に形(あら)はれたりけん。「君は善き人なりと見ゆ。彼の如く酷(むご)くはあらじ。又た我が母の如く。」暫し涸(か)れたる涙の泉は又溢れて愛らしき頬(ほほ)を流れ落つ。「我を救ひ玉へ、君。わが恥なき人とならんを。母はわが彼の言葉に従はねばとて、我を打ちき。父は死にたり。明日は葬らではかなはぬに、家に一銭の貯(たくは)へだになし。」 跡(あと)は欷歔(ききよ)の声のみ。我が眼(まなこ)はこのうつむきたる少女(をとめ)の顫(ふる)ふ項(うなじ)にのみ注がれたり。 (森鴎外 舞姫 第10回)
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