中国と日本の絶景

 情報更新は2021年6月9日

 

 

 

   西太后の後花園−頤和園 

Yiheyuan Imperial Garden in Beijing

 

 

 

行く経路飛行機で北京まで、北京市内から頤和園まで20キロから30キロ。

 

 

頤和園(いわえん)は、 北京市海淀区に位置する庭園公園。中国の歴代皇帝により整備され、面積は297haと広大である。園地の4分の3を占める330平方kmの自然湖「昆明湖」と高さ60mの人工山「万寿山」が特徴である。1998年ユネスコの世界文化遺産に登録された。

 

 

1153年(貞元元年)、金朝の海陵王は頤和園内の香山・玉泉山に金山行宮を設置している。元朝大都に都を置いた後、水運整備の必要性から郭守敬は上流の水源開発を行い、昌平県白浮村の神山泉から疏水し、宮廷で使用する水源を確保すると共に水運のための貯水池とした。

 

明代の1494年(弘治7年)、弘治帝の乳母であった佐聖夫人羅氏により甕山前に円静寺が建立(後に荒廃)された。これ以降、甕山周辺の園林が次第に増加し、正徳帝は湖畔に行宮を建設し「好山園」と命名、皇室園林としての利用が始まり、また「甕山」を「金山」と、「甕山泊」を「金海」と改名し、正徳帝や万暦帝が舟遊びのため行幸している。天帝の時代になると朝廷内部で権勢を振るった魏忠賢により山園が所有されるにいたった。清朝の初期には宮廷の養馬場として牧草地となっていた。

 

頤和園が現在の規模になったのは清朝6代皇帝乾隆帝の時代で、当時は「清漪園」と呼ばれていた。1750年(乾隆15年)、乾隆帝は母の崇慶皇太后(孝聖憲皇后)の還暦を祝い、西湖の西に高水湖及び養水湖を掘削し拡張した。乾隆帝は3つの湖を合わせて「昆明湖」と命名した。これは漢の時代に漢武帝が昆明池を掘削して水軍の訓練を行った故事に因む。また、湖の掘削で発生した土砂を利用して甕山を拡大し「万寿山」と改称した。1764年(乾隆29年)、洋銀480余万両の費用を費やした清漪園が概ね完成した。湖の水は農業用水としても利用された。当時の清漪園は居住及び政務施設が乏しかったため乾隆帝の行幸は日帰りに限られていた。

 

道光年間以降は国力の衰退に伴い清漪園は次第に荒廃し、庭園は雑草に覆われるようになった。1860年(咸豐10年)、アロー戦争で清漪園と隣の円明園は戦場となり、円明園の西洋風宮殿が破壊された。

 

1875年に即位した光緒はわずか3歳で、実権は母の姉にあたる西太后が掌握した。西太后は自身の居所である清漪園の再建に莫大な費用をかけた。工事は1864年から1895年にかけて行われ、完成後「頤和園」と改称された。しかし、この経費は北洋艦隊を整備する海軍予算を総理海軍事務衙門大臣であった醇親王奕環を通して流用したもので、清朝の軍備増強に大きく影響し,日清戦争敗北の原因の1つになったと言われている。

 

1900年(光緒26年)、義和団の乱を鎮圧する口実で出兵した八ヶ国連合軍の一部により破壊を受けたが、1902(光緒28年)に修復されている。

 

中華民国が成立すると頤和園は清室の私有財産とされ、1914年には有料での一般開放がなされた。1924溥儀が紫禁城から放逐されると、頤和園は北平特別市政府に接収され公園とされた。

 

1949年、中華人民共和国が成立すると頤和園には中国共産党中央党校はが設置された。またその後も柳亜子や江青などが園中の聴鸝館等に居住していた。1953以降、頤和園は公園となり一般開放された。

 

 

頤和園 平面図 photo by: www.zhihu.com

 

 

仏香閣  萬壽山  photo by:  www.fxyglxs.com

萬壽山は60メートル高さの人工山

 

 

 

 

皇家園林  photo by:  www.quanjing.com

 

 

 

石舫   photo by :   www.item.taobao.com

 

 

                           昆明湖上の十七孔橋  photo by: www.quanjing.com

                 昆明湖は330平方kmの自然湖

 

        

 

 

圓明園と清漪園は頤和園の東隣接の16平方km大きさの西洋式の庭園と皇家博物館。1724-1809建設、 1860年イギリスとフランスの連合軍は火を点けて燃やした。60年后、1900年八カ国連合軍(イギリス、アメリカ、フランス、ドイツ、ロシア、日本、イタリア、オーストリアとハンガリー)再び燃やした。

 

 

 

 

圓明園の復元図