◆1989年正月、一人、初めてのマイカーで本州一周旅に出ました。九州から関門海峡を横断して海辺を沿り191号線で山口県に進入。田園風景は素晴らしいかった。長門市を超えて突然道路の傍で「楊貴妃の里?」という信じなれない大きいな看板は目に入れた。びっくりした結果は、看板指示の通りで前進。伊上という交差点で66号線に入れて、357号に曲がって道はかなり狭くで、道路は商店町で走るようでした。 (http://sitsuurakai.eesaa.net/article/274568088.html) 「楊貴妃の墓」の指示がありました。停車して見ると、「ニ尊院」という小寺がありました。
(http://sitsuurakai.eesaa.net/article/274568088.html) 「楊貴妃の墓」とは、一尊の五輪塔です。銘文は?どこでも見ずからなかった。墓の形は、唐の時代ではなく、平安時代後期或いは鎌倉時代風「宝塔」の形の墓です。楊貴妃は唐玄宗の愛妃として安史の乱中四川へ逃げる途中、反乱の兵士が命令で自分で縄を首に締めて自死した史実は、どういう風に日本へ逃げたかな?事件の時間は756年、天宝15年、日本は天平勝宝8年。疑問だらけ。あの時、見物者は私たけでなく、東京の中国大使館の館員3、4人も来ていました。この伝説に魅力されたらしい。 この五輪塔は日本人の風習と言えば、「死た50年以上、墓ない人」「自殺した人」のための墓すれば、「楊貴妃の墓ではなく「楊貴妃の記念碑」でしょう。
(http://sitsuurakai.eesaa.net/article/274568088.html) でも、「伝説」の内容については、安禄山之乱で「馬嵬坡」で事件が発生するは正しい、「絞殺」は「自死」か不明、「長恨歌」は唐代詩人杜甫の長詩です。詩文は:「…忽闻海上有仙山,山在虚无缥缈间。 楼阁玲珑五云起,其中绰约多仙子。 中有一人字太真,…」その内容に「東航」に触れている字は「海上有仙山」から「東海には蓬莱の島」の推理だろう。「空艫舟」は多分想像している空で漂える小さな船だろう。伝説により、、「家来の陳安」などは中国の資料になかったらしい…でも美しい伝説は続けるほうがいいだろう。 京都市「泉涌寺」の「楊貴妃観音堂」 「楊貴妃観音堂」にの美しい木像は、1255年中国から渡来したものです、重要文化財に指定されています。拝観料金は500円もいるらしい。 洛陽二十番 御寺泉涌寺にの楊貴妃観音堂
洛陽二十番 御寺「泉涌寺」の楊貴妃観音菩薩 楊貴妃観音堂」にの美しい木像は、1230年中国から渡来したものです、国の重要文化財に指定されています。拝観料金は500円。 1230年(寛喜2年)湛海律師は中国から持って帰りました。 名古屋「熱田神宮」の楊貴妃伝説 熱田神宮は楊貴妃とどんな関係ですか? インターネットで検索した結果はいろんな説がありました。やはり唐の時代の詩人杜甫の「長恨歌」から作った伝説は分かりました。「…忽闻海上有仙山,山在虚无缥缈间。…」。仙山>蓬莱山=熱田神宮?やはり熱田神宮に楊貴妃の話は作った話でした。1998年筆者は熱田神宮を参拝して行きました、正門に入れて、長い参道の右側に林があり、林の中「楊貴妃の化粧した井」という指示の小さな木の板がありました。指示の通りで、四角の井があり、井のそば小さな神棚がありました。 しかし 2006年再び熱田神宮の時、楊貴妃に関連指示はどこもなかった。 参道そばの古い小道、林の中ですので、静か且つ神秘でき、ちょっと怖い。 浅い井のそば、神棚があります、(http://goldtensi.com/youkihi/youkihi.html) 井には泉水が出で来る、水の中に「島」は「楊貴妃の墓???」
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