大陸からの亡命者三千人
紀伊半島の熊野灘から上陸か九州の佐賀灘か?

 

参考: 奈良文化財研究所、佐賀県、和歌山県新宮市、などHP資料

 

 



和歌山県新宮市にある「徐福公園」にの徐福像




九州の佐賀県の徐福伝説

 

徐福(じょふく)は、中国の秦の時代(紀元前3世紀頃)の方士。斉国の琅邪の出身。日本に残った子孫は、福永、福万、徐仙、福寿、福谷、羽田がいるという。

 

司馬遷の『史記』の巻百十八『淮南衝山列伝』によると、秦の始皇帝に、「東方の三神山に長生不老(不老不死)の霊薬がある」と具申し、始皇帝の命を受け、3,000人の童男童女(若い男女)と百工(多くの技術者)を従え、五穀の種を持って、東方 に船出し、「平原広沢(広い平野と湿地)」を得て、王となり戻らなかったとの記述がある。

 

東方の三神山とは、蓬莱・方丈・瀛州(えいしゅう)のことである。 蓬莱山についてはのち日本でも広く知られ、「竹取物語」でも「東の海に蓬莱という山あるなり」と記している。 「方丈」とは神仙が住む東方絶海の中央にあるとされる島で、「方壷(ほうこ)」とも呼ばれる[2]。 瀛州はのちに日本を指す名前となった[3]。「東瀛(とうえい)」ともいう。

魏晋南北朝時代の487年、「瀛州」は、行政区分として制定される。 同じ『史記』の『秦始皇帝本紀』に登場する徐氏は、始皇帝に不死の薬を献上すると持ちかけ、援助を得たものの、その後、始皇帝が現地に巡行したところ、実際には出港していなかった。

 

そのため、改めて出立を命じたものの、その帰路で始皇帝は崩御したという記述となっており、「不死の薬を名目に実際には出立せずに始皇帝から物品をせしめた詐欺師」として描かれている。現在一般に流布している徐福像は、ほとんどが『淮南衡山列伝』に基づいたものである。

 

徐福伝説は日本では「伝説」扱いですが中国では「実在した」との認識で、日本全国に残る徐福伝説のうちでも佐賀のものは具体的な上陸地から、徐福一行の行程、 途中途中での逸話、お辰との悲恋物語、今現在も残る地名や言葉・風習までその質・量ともに最も信憑性が高いと言えましょう。

 

まさに佐賀の土地・人々のあい だに「息づく」徐福さんを紹介していきたいと思います。「史記」秦始皇本紀(BC219年)薺の人徐市ら言う、海中に三神山あり、蓬莱、方丈、瀛洲と曰い、僊人これに居る。童男女と之を求むることを得ん。  「史記」秦始皇本紀(BC212年)始皇・・乃ち大いに怒りて曰く・・徐市ら費すこと、巨万を以って計うるも、終に薬を得ず。  

 

「漢書」伍被伝(一世紀) 徐福をして海に入り、仙薬を求めしむ。多く珍宝・童男女三千人、五種・百工を薺して行かしむ。徐福は平原大沢を得、止まりて 王となりて来らず。  「呉書」孫権伝(一世紀) 秦始皇帝、方士徐福を遣わし、童男童女数千人を率いて海に入り、蓬莱神山及び仙薬をもとめしむ。亶州にとどまりて還らず。 世々相承けて数万家あり。(亶州を種子島と周辺を比定する見解がある。)  「義楚六帖」(後周) 今に至りて徐福の子孫皆「秦」氏と言う。  

 

昭和18年に発行された「科學ノート」(中瀬古之郎著) 方士徐福、始皇帝に奏上として、「大王が如何に廣大な土地を取るも、若し東海の畔に立って海を 眺め給ふならば天地は渺茫として際涯がないのに氣がつくであらう。 それと同じく、大王が若し瞑目して宇宙の過去・現在・将来を思ひ給ふならば、宇宙は實に悠久にして、人間の壽命は風前の燈、蜉蝣の生涯にも如かざるを感じ 給ふであらう。如かず、空間の征服を断念し給ふて、専ら時間の征服即ち人間壽命の延長に思いを凝らされて然るべきではないか。」 この様にして、童男女三千人、農工百藝の書籍技術を携えて、出発した。


日本における徐福伝承


  青森県から鹿児島県に至るまで、日本各地に徐福に関する伝承が残されている。徐福ゆかりの地として、佐賀県佐賀市、三重県熊野市、和歌山県新宮市、鹿児島県いちき串木野市、山梨県富士吉田市、宮崎県延岡などが有名である。

 

徐福は、現在のいちき串木野市に上陸し、同市内にある冠嶽に自分の冠を奉納したことが、冠嶽神社の起源と言われる。ちなみに冠嶽神社の末社に、蘇我馬子が 建立したと言われるたばこ神社(大岩戸神社)があり、天然の葉たばこが自生している。

 

徐福が逗留したとの伝承が残る佐賀市金立(きんりゅう)山には、徐福が発見したとされる「フロフキ(名前の由来は不老不死か?)」という植物が自生する。 フロフキは、カンアオイ(寒葵)の方言名で、金立地区では、その昔、根や葉を咳止めとして利用していたという。 丹後半島にある新井崎神社に伝わる『新大明神口碑記』という古文書に、徐福の事が記されている。

 

徐福に関する伝説は、中国・日本・韓国に散在し、徐福伝説のストーリーは、地域によって様々である。『富士文献』は富士吉田市の宮下家に伝来した宮 下家文書に含まれる古文書群で、漢語と万葉仮名を用いた分類で日本の歴史を記している。富士文献は徐福が編纂したという伝承があり[8]、また徐福の来日 した年代が、『海東諸国記』の孝霊天皇の頃という記述が『宮下文書』の記述と符合することが指摘される。ただし、宮下文書はいわゆる「古史古伝」に含まれる部類の書物であり、文体・発音からも江戸後期から近代の作で俗文学の一種と評されており、記述内容についても正統な歴史学者からは認められていない。


 

中国における徐福伝承

 

  北宋の政治家・詩人である欧陽脩が日本刀について歌った『日本刀歌』の中には、「その先祖徐福は秦を偽って薬を取りに行くと言い若い男女と共にその土地で老いた」と言う内容のフレーズが出てくる。

 


 

 

和歌山県新宮市の徐福伝説


 ◆紀元前210年(始皇帝37年)、当時の世界一の大帝国:秦の始皇帝朝廷は、徐福という方士(神道を信じて神仙を目指している人)を3回に渡って3000人以上の童男童女匠人たちを伴わせて「東瀛」という太平洋「蓬莱の国」に派遣しました。ところが、なんと、全員が姿を消して2200年以上に渡り「行方不明」になってしまいました。しかし、2200年の間、日本、韓国、琉球、ハワイ・・いろんなところから「徐福及び膨大な船隊上陸!」のうわさは絶えないのです。筆者は、2004年ゴールデンウィークにドライブ中、紀伊半島の南端の新宮市で突然・・・「徐福公園」を発見!建設費用は6億円以上、ガイドさんの情熱(徐熱?)且つ雄弁な解説には、なるほどと連発、やはり大陸からの亡命者三千人は紀伊半島の熊野灘から上陸と確信しました!

 


 ◆写眞には、和歌山県新宮市東海岸近くの「蓬莱山」(標高47.7メートル)。深い森林で覆蓋されています。ガイドさんは、「この森林には、鉄のものがたくさん発見されています」といいました。(次回の連休は必ず実物を見に行こう!)。手前の神社は、「蓬莱山」の山麓にある「阿須賀神社」です。

 

 


 

 

「秦徐福上陸之地」の石灯篭です。この場所は、今は海べと離れて数百メートルの小川辺にありますが、考察により、かつて、この場所は、「蓬莱山」とともに、海辺から間近だったようです。昔からあった筈の石の碑は、行方不明になり、この石灯篭は、かなり最近のものです。

 

 

 

 

 

 

 

 

「方士」の考察
凌炎

 

 「方士」は、もとは周代(紀元前1000年から紀元前300年)の王族の子供教育の官吏、及び土地訴訟に関する裁判官など官吏の官名です。戦国時代(紀元前300年から紀元前200年)には、神道(多神教、神仙教)を信じている人たちを「方士」と呼ぶようになりました。「方士」たちの特徴は、1)戦国時代の燕国(今の北京周辺)、斉国(今の山東省一帯)に分布していました。2)「修練したら神仙になれる」と信じで、自らも修練の実践していました。3)さらに、殆どの各級の統治者から重用されて、経済面、生活面で支持されてきました。4)「方士」たちの主な仕事は、「煉丹方士」:水銀を作る原料の「朱砂」から、水銀及び水銀の化合物を作成しました。このような新い化合物は、「不死と言われる仙薬」と名つげ、統治者たちと有産階級に捧げていました。なぜ「仙薬」と名づけたかというと、水銀の特性と毒性を利用して、色んな不思議な現象を起こした訳でした。当時の人々は、まるで神の業と信じこみました。このような新しい化合物を作成する技術は、「仙術」と称して、その時代、かなり活躍していました。しかし、このような「不死と言われる仙薬」を飲んで死んでしまった皇帝は、戦国時代から唐代まで、少なくありませんでした。そして他の「方士」としては、「煉気方士」:インドのヨガのような修練を積む方士、「星占方士」:天体運行で占いをする方士、などなど、数十種類の「方士」がいました。 「方士」たちの活動は、唯心論の目的から、唯物論の結果になっていました。中国の歴史上で、化学、物理、天文、地理、薬学、料理、気功などの発展を推進していました。「方士」の名は唐代まで使われていました。唐の時代に「方士」たちの色々な技を「方術」という学術で纏められました。そして中国の伝統宗教「道教」(日本の神道教と似ている多神宗教)は、この「方術」を自分の宗教に取り入れて、「方士」は「道士」になってしまいました。徐福氏は、多分山東省の有名な「方士」として、始皇帝から指名されて重臣になり、蓬莱の国(日本)に辿り着きました。そして、始皇帝の悪政から逃げるために亡命して、蓬莱の国に融化したと思われます。

日中文化交流

情報発表は2004年5月8日

情報更新は2014年5月1日

 

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