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 情報更新は2021年月23日

 

 

 

遼寧 高句麗前期城遺跡 五女山城 

Remains of Wunu mountain castle 
of Goguryo Prophase Kingdom

 

 

 

行く経路: 飛行機で瀋陽市まで、瀋陽から高速道路で228`桓仁満州族自治県桓仁鎮付近の五女山城公園まで。

 

 

場所:五女山城は桓仁満州族自治県桓仁鎮の北側より8キロメートル離れるところに位置して、城の東、南、西の3方向に城門を備えています。高句麗民族の開国であった城で、高句麗民族文明の発祥地です。

 

 

五女山城

 

五女山は中国遼寧省桓仁満州族自治県桓仁鎮の北8kmに位置しています。主峰の海抜は804m。南北1500M、幅300M、垂直高さ200M以上。岩肌を露出している山頂部は、登ってみるとわかるのですが、南北1500m、東西300mという長方形をした平たい台状になっています。周辺は断崖絶壁に囲まれているため、ここが天然の要塞として山城を築くのにきわめて適していたことがわかります。高句麗の山城の建造技術は九州に伝えられたといいます近年、考古学者は五女山で古代遺跡と遺物を発見し、年代が一番早いのは新石器時代後期の陶器、今まで4500年の歴史を持ち、これは4500年の前にはここで人類の活動、生活などを証明できます。遺物の中には戦国後期の石造りの剣、石造りのノミ、陶製の壷、遼金時期の生活、生産道具と兵器などもあります。

 

 

 

伝説によればここには5名の御姫が軍隊をその頂点に駐屯させたために、その名づけられました。

 

 

2006年高句麗の王城の一つとしては桓仁五女山山城と吉林省集安市の高句麗遺跡は世界遺産に登録されました。

 

 

五女山の山城(五女山山城)は3ヶ所で、城の中心部には、長さ12m・幅5m・深さ1.5m前後の生活用水用貯水池があります。多くの半地下式兵営や、歩哨所などの軍事施設の遺跡が残って、山城の建築には、中国北方民族の伝統的な山城建築の要素を受け継ぎながら、使う材料や配置、築城には山に沿って建てられるなど、高句麗の特徴が多く見られます。

 

 

 紀元37年、北夫余王子の朱蒙は宮殿の戦いに負けて、五女山に亡命して、五女山には高句麗の第一の王城を建て、明永楽22年(紀元1424年)建州女真族三代のリーダーである李満柱は軍隊を遼寧に率いて、駐兵しました。そのために、五女山も満族文明の発祥地です。

 

 史上に昇古城( shēng chéng)、合羅城、五滝山、五老山、郁霊山、于郎山、五余山などの名づけがありました。

 

 

中国語紹介:

 

五女山山城屬世界文化遺,中國重點文物保護單位,位於遼寧省本溪市桓仁縣縣城東北8.5公裡的五女山上,是史料中記載的高句麗第一代王城紇升骨城”的部分遺址。

 

公元前37年,中國東北地方政權扶余國王子朱蒙率領一部分人在此建國立都,號稱高句麗。依山勢而建,呈不規則的楔型,南北長1540米,東西ェ350550米,分山腰的外城和山頂的城兩部分。山城東、西、北三面都是百尺峭壁,南面是險峻的陡坡,地形易守難攻。

 

五女山山城主要發現了3處大型建築遺址以及城牆、哨所、兵營、蓄水池等遺址。五女山山城作為高句麗的早期都城,在東北地區史以及高句麗民族史研究中,有十分重要的史價

 

五女山山城又名“紇升骨城”,位於中國東北部遼寧省的桓仁滿族自治縣,它是高句麗早期的重要山城遺址。 建於公元前34年,它承襲了中國北方民族構築山城的傳統,但在選址布局、城牆築法、石料加工等方面,卻有更大的突破和創新,從而形成了一種不同凡響的山城形式,是中國東北和東北亞地區山城建築進入劃時代階段的標誌,在中國古代東北民族建築史上,具有裏程碑的意義。

 

五女山山城,是高句麗族創建政權的第一個都城。高句麗第一代王朱蒙於公元前37年在此建立政權,到公元三至五世紀,達到鼎盛時期,曾占據了遼河以東、日本海以西、第二松花江以南、漢江以北的廣大區域,在史上存續了705年,至唐總章元年(公元668年)為唐朝所滅。

 

五女山山城座落在遼寧省本溪市桓仁縣城東北8.5公裡處,平均海拔800余米,南北長約1540米,東西ェ約350550米,面積約60萬平方米。南北兩端向東部凸出,東部中段凹,形像一隻單靴。五女山主峰在半山腰處突兀而起,四壁斷崖如斧劈刀削一般,落差百米左右,山勢挺拔險峻。山城大部分利用天然的懸崖峭壁作屏障,僅在東、南部山勢稍緩處以及通往山上的豁口處築牆封堵。

 

五女山山城承襲了中國北方民族構築山城的傳統,但在選址布局、城牆築法、石料加工等方面,卻有更大突破和創新:城牆走向隨山就勢,平面布局不求方正,城牆壁面石材經過精心加工,多為大頭小尾的楔形石。砌築時,大頭向外,小尾向,墻體部以長條石層層相壓,減少了外向張力,避免了坍。這種先進的石材加工和砌築方法,是五女山山城的獨創。

 

 

五女山山城以嶄新的建築形式,突破了中國傳統山城的固有模式;五女山山城築於山,在高句麗山城中極為罕見;五女山山城對東北亞古代山城發展影響巨大;五女山山城是已經消逝的高句麗文化的特殊見證;五女山山城是高句麗早期山城中的傑出代表;五女山山城是人文與自然的完美結合。

 

五女山山城中築有城牆、城門、王宮、倉庫、兵營等建築,富有軍事色彩。山城大部分利用天然懸崖峭壁作為屏障,僅在部分山勢稍緩處築牆封堵。城牆的墻基多以大石疊築23層而成,其上壓縫砌築有楔形石,基ェ56米,頂ェ34米,並辟有南、東、西3個城門。城發現有瞭望臺、蓄水池、點將臺、天池、大型建築、兵營式建築群等遺跡。新石器時代直腹罐(殘)、打制石器、戰國至漢代的大陶壺、王莽時期的大泉五十等珍貴文物和高句麗時期的陶罐、環首刀、甲衣,遼金時期的銅印、貨幣、陶盆、陶罐等文物數百件。出土陶器、石器、瓷器、銅器、鐵器、銀器等各類遺物1000余件。

 

高句麗族創建的王國雖已湮沒在史的長河中,但高句麗文化在東北各地高句麗城址、墓葬等史遺存中仍然得到體現。五女山山城高大的城牆、完備的防禦體系和豐富的文化涵,都是高句麗政權初創時期的史寫真,對世界認識這個民族的古老史和文化無疑具有珍貴的價。挖掘高句麗文化、研究高句麗文化、保護高句麗文化,對世界文明發展史具有重要的史和現實意義。

 

 

 

 

紀元37年、北扶余王子の朱蒙は宮殿の戦いに負けて、五女山に亡命して、五女山には高句麗の第一の王城を建て、photo by: . https://inbound.exblog.jp/

 

 

 

 

五女山は中国遼寧省桓仁満州族自治県桓仁鎮の北8kmに位置しています。主峰の海抜は804m。岩肌を露出している山頂部は、登ってみるとわかるのですが、南北1500m、東西300mという長方形をした平たい台状になっています。周辺は断崖絶壁に囲まれているため、ここが天然の要塞として山城を築くのにきわめて適していたことがわかります。高句麗の山城の建造技術は九州に伝えられたといいます。photo by: https://inbound.exblog.jp/

 

 

 

 

99段という長い石段登ると、城壁と城門跡が見えてきます。

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城門跡を抜けると、祭祀が執り行われた広場や朱蒙の建てた王宮や住居、兵営などの跡、水の湧き出す天池があります。photo by: https://inbound.exblog.jp/