日本の孫文記念館「移情閣」

 

サロン 写真、文


2012年1月22日、神戸市北区の明石海峡大橋傍の孫文記念館「移情閣」を訪問しました。

 

孫文或いは孫中山、孫逸仙と別名を持ちます。中国の辛亥革命の領袖として、いままで台湾の中華民国と大陸の中華人民共和国の政府から庶民までの尊敬を集めています。

 

辛亥革命の成功は現代中国と現代台湾の始まりに成りました。中国では「国父」と呼ばれています。

 

この建築はもともと神戸で活躍していた華僑の呉錦堂(1855〜1926)の別荘「松海別荘」でした。

 

その中に後で増設した八角三層の「移情閣」を含みます。神戸でも素晴らしい景観をしていて有名でした。

 

1913年(大正2年)3月、孫文は革命を宣伝するため、且つ、募金、「黄埔軍校」を準備するなど目的を持って日本へ来ました。3月14日、神戸の華僑や名人名流たちは「移情閣」で孫文の歓迎会及び昼食会を開きました。

 

以後、呉錦堂氏はこの別荘を神戸華僑総会に寄贈しました。1983年、神戸華僑総会は「移情閣」を兵庫県に寄贈しました。1984年(昭和59年)11月12日、孫文の誕生日に、兵庫県は「孫中山記念館」の名前でオープンしました。

 

この記念館はもともと明石大橋の場所に位置していました。1994年(平成6年)大橋を建設のために、一旦解体して、西南方向200メートルの現在地に移動しました。

 

6年もかけて2000年(平成12年)4月に完成、展示を再開しました。2001年文部科学省より国の重要文化財に指定されました。2005年10月「孫文記念館」に改称しました。

 

(サロン写真、文)。

 

 

 

 

 

「孫文記念館」の外観

 

 

 

「孫文記念館」の入り口

 

 

 

1984年開館から2005年移転して再開館までの間「孫中山記念館」という名前でした。

 

 

 

 

孫文記念館内にある孫文の銅像。孫文は、学名孫文、(学名は、発蒙教育のために、塾へ行く時家族が作る名前)。字(字は、成人後社会に入るために家族が作る名前)孫載之。号(号は雅名、自分や友人が作る名前)は孫日新、孫逸仙。 化名(化名は仮名、本名を隠すための別名)孫中山、など十数ヶ。

 

 

八角三層の「移情閣」の三階。

 

 

 

 

孫文は1913年(大正2年)3月14日、神戸の華僑や名人名流たちは「移情閣」で孫文の歓迎会及び昼食会に参加した服装の像。でも当時の写真は残っていません。想像した服の色でしょうか。孫文氏が着た服は清の時代の紳士の標準服装「長袍」でした。いまは、大陸中国は見られませんが、台湾ではまだ見かけます。

 

 

 

 

孫文は1918年6月、汕頭(スワトウ)から基隆へ蘇州丸で移動するとき、井上足彦船長の求めに応じて揮毫したもの。「海不揚波」、意味は、海面の「風平波静」の表現でしょう、あるいは孫文の心情の平静だろうか。

 

 

 

孫文記念館内の様々な部屋の配置

 

 

 

たそがれ時の孫文記念館と明石海峡大橋(全長3910m中央支間 1990m、世界一、本州と四国を繋ぐ1986年から建設1998年落成。 

 

 



中日文化交流

情報更新は2014年3月16日

 

 


 

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