隋唐大運河は、東都洛陽中心として廣通渠,永濟渠,通濟渠,山陽瀆,江南運河で構成する。紀元605年から建設、360万人投入、全長2700kmだった。今は半分以上不通、半分は断続的他の水系とつなっていた。
古地名解釈: 大興城:西安 板渚: 河南荥州鄭州 汴州:河南開封 宋州:河南商丘
隋唐大運河は中国の秦で始めて建設され、隋は続いて、中国の南北を結ぶ重要な物資輸送手段となり、元代にも修築された。 運河は、ヨーロッパで発達し、特にイギリスでは産業革命期の鉄道以前の主要な交通、物資運搬手段として運河網が造営されたこと、近代のスエズ運河やパナマ運河がよく知られているが、中国大陸では、ヨーロッパより千年前から運河は農業用水・内陸交通・物資運搬手段としても早くから開発されていた。むしろ中国史における運河の開設の方が古く、重要な役割を果たしていた。特に隋の大運河網の建設を頂点として、統一王朝の事業として重視され、その一部は現在まで使用されているものもある。
秦の運河 中国の運河開削の歴史は、秦の政(始皇帝)の鄭国渠(ていこくきょ)に始まる。前247年、13歳で秦王となった政(正とも。後の始皇帝)が秦王となったとき、鄭国という人が、関中の黄土地帯を開拓するために渭水の支流の水を引いて灌漑用水をつくることを献策した。実は鄭国は隣の韓のスパイだったのだが、用水は立派に完成し、鄭国渠と言われ、今も使われている。
また始皇帝は、前214年に嶺南(今の広東・広西)の南越を征服しようとして軍を派遣したとき、華中と嶺南を南北に結ぶ霊渠という運河を建設した。これは南海の象牙や真珠などの産物を華北にもたらすことになり、この運河も現在も使われている。 (鶴間和幸『人間・始皇帝』2015 岩波新書 p.145-147)
隋文帝の大運河 中国全土を統一した隋は、首都圏の人口増加を支えるために、豊かな生産力のある江南地方と首都大興城(長安)を結ぶ大運河の建設を開始した。まず、隋文帝の584年、長安と黄河を結ぶ広通渠建設された、隋代の運河で最初に建設された。隋の都長安を中心とした関中地方の人口増加に伴う食糧不足を解決するため、黄河とつながるこの運河を築き、中原(華北平原)で生産される穀物を輸送した。隋の文帝の587年に山陽涜を建設された、淮水と長江を結ぶ運河。
隋煬帝の大運河 604年に即位した第2代煬帝は605年、黄河と淮河を結ぶ通済渠を築き、これによって江南の物産は長江から長安に至る運河が貫通した。華北と江南地方とを結ぶ重要な役割を果たした。さらに、長江の南岸から杭州に至る江南運河を完成させ、長江デルタ地帯と結びつけた。長江(下流の揚子江)流域の揚州と浙江省の杭州を結ぶ運河だので、これによって長江デルタ地帯と遠く長安が水路で結ばれることとなった。また608年には黄河と現在の北京付近を結ぶ永済渠を開いた。これは高句麗遠征のための食料輸送用に建設された。 大運河の建設には、多数の人民が徴発され、その負担が隋の支配への反発となり、早い滅亡の一因となったとされるが、これらの洛陽を中心点とした「横Y字形」の運河網が、長安・杭州・北京地方を結ぶ動脈となって中国の経済的統一に大きな役割を果たした。また後の元や明・清も運河の整備に力を入れ、現在においてもこれらの大運河網は活用されている。洛陽は大運河のおかけ、中原(華北地方)の経済の中心地として栄え、後の宋(北宋)の首都となる。
元の大運河 金と南宋の対立のために中国全土の経済圏は分断されていたが、元朝の成立によって再び統合されることとなった。そこで再び脚光を浴びたのが大運河であった。隋の大運河は、長安・洛陽に向けて、江南と華北地方を横Y字型で結ぶものであったので、元は都大都と江南地方を直接結ぶ、南北縦断する運河の建設を新たに開始した。1276〜1292年の間にそれを完成させ、現在見るような大運河となった。一方で元は南方の物資を海上輸送で華北に運んだ。それは、冬季になると大都付近の運河が凍結して使えなくなってしまうからであった。
通恵河 つうけいが。元代に首都大都から通州まで開設された大運河の一部。1291年、フビライ=ハンの命令で、郭守敬(授時暦の制定でも知られる漢人の技術者)が設計し、翌年著工、1293年に完成した。郭守敬は、大都の北方の昌平県白浮泉の水源から水路を甕山泊に導き、そこから城内の積水潭に引きために、東に向かってから南に折れ、南の水門から旧運河に合流するようにした。旧運河にも14の水門を設けるなど、厳密な測量と工事で運河を完成させた。約2万人を動員し、約91kmの大工事であった。この運河の完成によって、これまで通州で荷揚げされていた穀物輸送等の船舶は、大都まで直通できるようになり、大都の積水潭は船で水面が覆われるほど盛況が出現した。なお、甕山泊とは、現在の頤和園の昆明湖の前身である。 (陳高華『元の大都 マルコ・ポーロ時代の北京』1984 中公新書 p.64-65)
隋唐大運河の世界遺産登録内容:
通済渠
(1)含嘉倉遺跡〔河南省洛陽市〕
(2)回洛倉遺跡〔河南省洛陽市〕
(3)鄭州段運河〔河南省鄭州市〕
(4)商丘南関段運河〔河南省商丘市〕
(5)商丘夏邑段運河〔河南省商丘市〕
(6)柳孜運河遺跡〔安徽省淮北市〕…柳孜段運河遺跡、柳孜橋梁遺跡
(7)泗県段運河〔安徽省宿州市〕
永済渠
(8)滑県 - 濬県段運河〔河南省安陽市・鶴壁市〕
(9)黎陽倉遺跡〔河南省鶴壁市〕
洛陽隋唐大運河博物館
洛陽隋唐大運河博物館
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洛陽隋唐大運河博物館は、河北岸の全国重点文物保護単位である古建築群山陝会館によって計画的に建てられた。山陝会館は清康熙雍正年間に建てられ、既存の琉璃照壁、東西儀門、山門、東西僧房、舞楼、東西廊坊、東西官庁、拜殿、本殿、東西配殿は、厳密な構造と独特のスタイルの古建築群である。運河博物館は、会館の中央広場で150平方メートルほどの大運河水系のレリーフ図を作成しました。レリーフ図では、大運河の流れとその沿線の都市が一目で分かります。
隋唐大運河の展示ホールは、東と西の廊下にあります。入り口はメインホールの隣の北側にあるため、訪問先が逆になります。メインホール(開いていません)、礼拜ホール、石造りのアーチが残っている、ダンスフロアステージ、ゲート、ザオビ、東西宜門、門と壁がより美しく、河東の主人による額、壁に3つの色の釉薬パターン、2つの竜がビーズを演奏、云竜が水で游んで、水玉游戯があります。
シャンシャンギルドホールに位置するギルドホールは、清朝時代の康西と永正の時代に建てられたもので、当時は山西省と陝西省の実業家によって建設されたビジネス、集まり、社交の場でした。博物館の敷地は10,000平方メートル以上の面積をカバーし、建築面積はほぼ5,000平方メートルです。洛陽のシャンシャンギルドホールの中心軸には、チャオビ、シャンメン、ダンシングタワー、メインホール、ワーシップホールなどがあります。中心軸の左側と右側は、対称的なピアシングルームとマッチングルームです。河南西部にある数少ない保存状態の良い清朝初期の建物の1つであり、国の重要な文化的遺物です。
淮北市隋唐大運河博物館
淮北市隋唐大運河博物館には数万点の文物が所蔵されており、内には漢代の銅玉衣、淮北柳孜隋唐大運河跡の出土文物及び春秋戦国から秦漢期の淮北の出土文物がある。博物館は市役所の向かいにあり、無料で便利です。「漢煉瓦」を見えるし、運河の発展の概況と江淮地の歴史的起源を見ることができ、もう一度江淮地の歴史的文脈の印象を深めます。
淮北市隋唐大運河博物館
中国語紹介文:
隋唐大運河是隋代統一南北以後,將以前已有的自然水道加上隋代開鑿的運河組成了一條自江南一直到京城洛陽的路上水道,主要目的是運送首都所需的物資。運河以洛陽為中心,分別由公元584年開鑿的向西到陜西西安的廣通渠,603年開鑿的經山東臨清北上至河北涿郡的永濟渠,公元605年向南開鑿到江蘇清江的通濟渠和山陽瀆和公元610年連接江蘇鎮江和浙江杭州的江南運河構成。隋唐大運河是世界史上最長的運河。但是隨著時間的推移,隋朝大運河部分河段失去通航功能,隨後被元世祖忽必烈所修的京杭大運河(僅古邗溝、江南運河等河段與隋朝大運河有重合)取代。
隋唐大運河以洛陽為中心,南起杭州,北到北京,隋朝開鑿全長2700公裡,跨越地球10多個緯度,縱貫在中國最富饒的東南沿海和華北大平原上,經過今浙江、江蘇、安徽、河南、山東、河北、北京七個省市,通達黃河、淮河、長江、錢塘江、海河五大水系,是中國古代南北交通的大動脈,在中國的歷史上產生過巨大的作用,是中國古代勞動人民創造的一項偉大的水利建築工程,也是世界上開鑿最早、規模最大的運河。後經元朝取直疏浚,全長1794公裡,成為現今的京杭大運河。京杭大運河利用了隋朝大運河不少河段,縮短了900多公裡的航程。 自清末改漕運為海運,大運河才不再是國家經濟的大動脈。
隋代的政治和軍事中心位於目前的中國渭河平原,尤其是中原地區,在平定南陳期間,為了運兵南下,開始修建運河。待開皇九年(589年)三月平定南陳後,為了將江南的糧食和紡織品運送到北方,又陸續開鑿了數條運河。最終形成以洛陽為中心,首尾相連的幾條運河。
大運河為後世經濟發展起到了很大的促進作用,在大運河修築成功和此後發揮作用的五百余年時間之內成為溝通運河沿線的重要政治、經濟、文化的紐帶。但在隋煬帝大業年間修建過程中過重的勞役加重了普通百姓的負擔,隋煬帝太急著建運河使得民怨沸騰,成為隋末民變的誘因之一
隋唐小運河通濟渠、大部分河段已經湮沒成為遺址,僅存若乾河段。
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