鳥居、華表、牌坊
凌炎
鳥居
鳥居は中国の「華表」から発想して作成された建築物との仮説があります。昔、鳥居は「華表」とも書きました。もともと「門」の代わりを意味するものです。今は、神社の前に立てられて、神社を象徴します。時々仏教の寺院にも見られます。単独に立っている鳥居もあります。皇陵の前にもあります。しかし、鳥居は「華表」との類似性あまり多くないです。鳥居の起源はまだ不明です。
町角で小便防止用「鳥居」、日本の街では、公衆便所があまりないので、深夜ガソリンスタンドやスーパーが閉まった後、小便する男性、特に中年男性に良く見られます。
華表
華表
中国の華表は、「座」、「承露盤」、「蟠龍柱」 「蹲獸」で構成。中国を代表するシンボルです。昔、華表は宮殿、陵墓の道路の両側、「神道柱」とも云います。伝説により、紀元前3000年の堯の時代、木で華表のようなものがありました。東漢から石の華表もありました。華表は通常、きめの粗い白玉を彫り上げたもので、台座は方形となっており、これを蓮華座、あるいは須弥座といいます。上面には龍の図案が彫刻され、蟠龍柱上には蟠龍盤とともに流雲紋が飾られています。上端側面には雲板という「誹謗木」(天子の過ちを人民に書かせる札)を模した板があり、石柱上には円形をした承露盤があり、天球と地上に対応しています。柱上には天に向かって吠えるポーズを取った神獣が蹲踞しており、これを「朝天吼」あるいは「望天吼」といいます。有名なものとして、天安門広場にある2組の華表があります。これは500年余の歴史を持つと言われていて、一説には廓外のものが天子の外出を見守り、廓内のものは天子の帰還を見守ると言われています。南京の呉平忠侯墓前の墓道にも華表があり、南北朝時代の梁代の石柱と言います。大連市の星海広場にも華表が1本あり、天安門の前の物より大きいと土地っ子の自慢です。
中国雲南省アカ族(ハニ族)の「パトォー・ピー(精霊の門)
現在の雲南省とビルマとの国境地帯に住むアカ族(英語:Akha、中国ではハニ族)の「パトォー・ピー(精霊の門)」という村の入口の門には、上に木彫りらしき鳥が置かれることや、鳥を模した造形物を飾る風習もあることが実地を調査した研究者から報告されていることから、日本の神社でよく見られる「鳥居」の原型は、アカ族らが長江流域から南下、避難してくる前、長江流域に住んでいた時代(百越人であった時代)の「鳥居」ではないのか、という説もあります。アカ族の村の門には鳥の木形が置かれるますが、同様の鳥の木形は日本での稲作文化の始まりとされる弥生時代の遺蹟である池上曽根遺跡や纏向遺跡でも見つかっており、また他にも多くの遺蹟でも同様です。
牌坊
牌坊は「棂星門」から変化したものです。棂星は霊星、即ち天田星。豊かな年を求めために、漢高祖劉邦は「棂星門」を利用して「天」をお祭りします。宋の時代から「孔子」をお祭りするため「棂星門を利用していました。
春秋戦国時代から唐代まで、城下町には「里坊制」、坊と坊の間は壁があります。壁の中間には、通路があって「門」を設置、これは坊門=牌坊の広く応用始めます。
牌坊=坊門
唐、宋、明、清の時代に大繁盛。明、清の時代は皇帝が牌坊をご褒美として庶民を表彰する役目もありました。例えば、「五代同堂」は、大家族は、曾祖父、祖父、父、息子、孫が揃っていたら、朝廷は大家族を褒めるために県知事から官費で牌坊を造ることを命じます。他のお褒めの名目は、夫を亡くして50年再婚しない奥さん、科挙試験で「状元」「探花」「挙人」のような称号が貰った家族には、家族ではなく村や町や鎮の所在地に牌坊を立てます。筆者は子供の時、田舎の村でそんな牌坊があちこち残っていましたが、大陸の文化大革命で全部破壊されました。
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