中国革命の賢内助梅屋庄吉 凌炎 摘要 2014年4月26日に、長崎市旧香港上海銀行長崎支店記念館は開館。その2階は、「孫文・梅屋庄吉と長崎」のミュージアムです。 長崎市旧香港上海銀行長崎支店記念館 梅屋庄吉(1868年1月8日〜1934年11月23日生涯66歳)、日本最初の映画撮影会社「日活」の創始人。中国の革命の成功を心から望んでいます。彼は、孫文と知り合い、意気投合、誓いました「君は一刻も早く、革命の兵を挙げたまえ。私は財を挙げて支援します」。 孫文は、感動して梅屋庄吉の袴の後ろに「慈母」の文字を書きました。 梅屋庄吉 孫文 梅屋徳子夫人 孫文は梅屋庄吉氏と、パーティで知り合いました。共通の知人ジェームス・カントリー師(宣教 師、英国医学博士)の紹介でした。カントリー師は、教え子である孫文の革命運動のため、自分ができる全てを注ごうと決意を固めていました。そこで信頼に足る人物として梅屋庄吉を孫文に紹介したのです。1895年1月5日、香港で写真館を経営していた庄吉のもとに、孫文は来訪しました。 梅屋庄吉氏は香港では有名な日本人でした。捨て子がいれば、拾って養育する。困窮者には惜しげもなくお金
を出す。そんな梅屋庄吉にカントリー師は絶大な信頼を寄せていたのです。中国の現状を憂うる気持ちは庄吉も同じでした。「よくそんな大事を打ち明けて下さった。感謝します。喜んでお役に立たせて下さい」。そしてきっぱりと言
い切りました。「君は一刻でも早く、革命の兵を挙げたまえ。私は財を挙げて支援します」と。梅屋庄吉は孫文の盟友として生きる決意を固めまし た。そしてその誓いを生涯守り通したのです。その時、庄吉28歳、孫文は30歳であった。 孫文の革命を支える上で、庄吉の才能はいかんなく発揮された。まずは武器集め。どこを押さえれば、武器の入手が可能かという裏情報を的確に掴みます。武器購入の費用は全て庄吉が負担したのは言うまでもありません。庄吉は可能な限りの金を孫文に提供し続けました。現金が不足すると、友人に手形を書いてまで金
を集めたのです。 1904年5月、梅屋庄吉は香港を脱出せざるを得なくなりました。庄吉の写真館が、反乱軍の拠点となっていると当局に密告する者があったからです。庄吉の行動は速く、脱出先をシンガポールに決め、情報を得た数時間後には、埠頭に着いていました。 上海から脱出した、梅屋庄吉は新しいビジネスチャンスを狙いました。当時、シンガポールには映画を上映するところはどこにもありませんでした。「これは当たる」。持ち前の勘が働きました。そうとなれば行動は早い。大天幕を張って仮設の映画館を作ろうとしました。これに力を貸してくれたのが、シンガポール在住の「興中会(孫文が結成した革命的秘密結社)」の華僑たちです。彼らは故国を離れた中国人で、孫文の革命
運動に夢を託していました。孫文に支援を惜しまない庄吉を助けることに彼らは躊躇しなかった。土地の提供、必要な資材の調達、映画の宣伝など、彼らは庄吉の映 画興行のため奔走した。これが当たりに当たった。庄吉は莫大な金を手にすることになる。映画人梅屋庄吉の誕生である。 1905年6月、梅屋庄吉は50万円(現在では約4億円)という 莫大な資金を持って、シンガポールから日本に帰国した。長崎を脱出して12年が経っていました。帰国してすぐ、M商会という映画興業会社を東京に設立。その年の暮れには、早くも映画製作にも取り組み、映画人としての地歩を固めていくのでした。36歳でした。 武昌蜂起成功の電報が庄吉のもとに届いた時、梅屋庄吉は躍り上がって喜び、すぐ撮影技師を呼び寄せ、中国行きを命じた。孫文の革命をフィルムに収めるためである。そして武昌攻防戦を戦う同志に17万円(現在では1億以上)を惜しげもなく寄付した。香港で「財をもって支援する」と誓ってから18年が流れていました。 辛亥革命成功した2年目の1913年、清朝の武将であった袁世凱が実権を握り、専制体制を復活させ、自ら帝位に就こうとしたので、孫文は、亡命を余儀なくされました。亡命先に選んだ国は日本。梅屋庄吉は孫文を全面支援しました。孫文は帰国して、中華民国初代大統領になり、1925年死去まで、梅屋庄吉との友誼は続けられました。
大統領服装の孫文
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