北魏洛陽時代の龍門石窟(節選)
石松日奈子
1鮮卑拓跋族の仏教信仰
漢時代に中国に伝わった仏教は、三国・晋・南北朝時代の中国文化圏で飛躍的に発展した。この新しい外来の宗教が説く超国家的、超民族的内容は、漢民族ばかりでなく、中国の束北部から西北部に生活していたいわゆる塞外の胡族たちにとっても魅力的なものであった。とくに胡族が華北を占拠した五胡十六国時代には、後趙(羯族)、前秦(氏族)、西秦(鮮卑族乞伏氏》、北涼(匈奴族)などの胡族諸国家が競って高僧を自国へ迎え入れ、経典の漢訳や造寺造仏を盛んに行,たと伝えられてぃる。のちに龍門石窟を開ぃた北魏も、鮮卑拓跋部と呼ばれる胡族が建てた国である。
拓跋部は鮮卑諸族の―つで、本来中国北辺の森林で狩猟と遊牧のほか、一部原始的な農業を営んで生活をしてぃた。1980年に内蒙古自治区の大興安嶺東麓で発見され多「葛仙洞」と呼ばれる洞窟は、拓跋部の祭場の遺跡であることが確認された。その後、拓跋部は南へ移動して3世紀中頃には盛楽(内蒙古自治区ホリンゴール)を拠点とするようになり、4世紀初め頃には漢民族の西晋エ朝から代エに任ぜられた。西晋減亡後、拓跋什翼腱(昭成帝)が代国を興したが前秦に減ぼされ、386年に拓跋珪(道武帝)が魏(北魏)を建国した。398年には河北を攻めて平城(山西省大同)へ遷都し、さらに陵西北部や遼寧、甘粛を征して、439年に華北地域の統―を果たした。
この間、北魏は征服地の民と戦利品を大量に国都平城周辺へと移させ、漢民族の伝統文化や新来の仏教文化、知識人、僧侶、技術者などを集めて大規模な都城を建設した。『魏書・釈老志』によれば、平城には五重塔や講堂などを備えた本格的な仏教寺院も建設されたという。また、初代道武帝と第2代明元帝に崇敬された渉肖の藩臭は、道武帝を「当今の如来」と称賛したと伝えられ、この「皇帝即如来」とする思想は、王権と結びついた北魏仏教の特性をよく示している。しかし、第3代太武帝は漢族出身の崔浩や道士冠謙之の勧めにより急速に道教に傾倒し、446年、中国仏教史上初の大規模な廃仏が断行された。
やがて452年、文成帝の即位とともに仏教が復興されると、皇帝と等身大の石像や、建国以来の5人の皇帝を顕彰する5体の丈六釈迦銅像などが次々と造立され、460年に沙門統(宗教長官)どんようとなった涼州僧曇曜は文成帝に奏上して、平城の西に5つの大仏窟(現在の雲岡石窟曇曜五窟)を造営した。こうして、477年には城内の寺は約100カ所、僧尼は2,000余人、国中の寺は6、478カ所、僧尼は77,258人になったと伝えられる。
現在のところ北魏平城址の本格的な発掘調査はまだ行われていないため、文献に伝えられる寺院の多くは確認されていないが、山西省大同市の西に残る雲岡石窟群は、北魏平城仏教の精華を今日に伝える―大モニュメントとして知られている(挿図2)。雲岡の軟らかい砂岩に彫り出された仏像は、明るく大らかな表情と量感溢れる体躯で表現され、胡族芸術と呼ぶにふさわしい力強さを漲らせている。
2北魏の漢化と洛陽遷都
北魏は建国当初から漢族及び漢文化を採用した。皇帝の後宮にも漢族の女性を入れたため、北魏漢化政策の推進者として知られる第6代孝文帝(在位471―499年)の代では、すでに鮮卑族の血は16分の1になっていた。孝文帝は父献文帝が14歳の時に李夫人(漢族)に生ませた子であるが、北魏では慣習により皇太子の生母はみな殺されることになっていた。孝文帝はわずか3歳で立太子させられ、同時に母を失った。孝文帝を養育したのは祖母にあたる文明皇太后鴻氏(凋太后。文成帝の皇后。490年崩御)である。凋太后は北燕国王(漢族)の孫で、決断力と実行力に冨み、まだ19歳の献文帝に譲位させると、5歳の孝文帝を即位させて自ら執瀬下。凋太后称制期と孝文帝親政期には、均田制(土地制度)や三長制(戸籍と税の制度)が創設されるなど、統一国家としての基盤が整えられた。
一方、この時期はさまざまな漢化政策も打ち出された。まず483年に同姓間の通婚を禁じ、その後は胡族と漢族の通婚を奨励した。486年には孝文帝自ら漢族皇帝の礼服である袞冕服を着用し、公服を漢風に改めるよう命じた。494年には漢族の古都洛陽へ遷都し、さらに胡服(襟が詰まった筒袖の上着、長ズボン、長靴など乗馬や狩猟に便利な鮮卑服)の着用を禁止、495年には胡語(鮮卑語)の使用も禁じた、
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龍門石窟の造営がいつ、どのように始まったかは明らかではない。『魏書・釈老志』によれば、景明の初め(5OO年)に宣武帝が伊闕山に石窟の開整を命じており、この石窟が西山最北端部に現存する賓陽中洞と賓陽南洞に当たると推定される。ただし、西山南部にはこれよりさらに早いもので、古陽洞という洞窟がある。古陽洞に残る北魏・太和19年(495)11月の造像記は龍門石窟中最古のもので、当時司空の要職にあった長楽王丘穆陵亮夫人蔚遅氏が、亡き息子牛橛のために弥勒像を造ったというものである。丘穆陵亮は北族出身の功臣で、孝文帝の命により493年秋より洛陽城の建設を担当し、その家族も遷都前後に平城から洛陽へ移り住んできたと思われる。
また、尉遅氏龕の真上に造られている北海王元詳(孝文帝の異母弟)母子による弥勒像は太和22年(498)の完成である。ただし、銘文によれば発願したのは4年前の太和18年(494)12月で、遷都後間もないこの時期、孝文帝の南斉征伐に従軍する息子元詳を洛水のほとりで見送った母の太妃高氏が、家に帰り伊水で発願したという。
さて、上記2龕はともに弥勒菩薩交脚像を主尊とし、古陽洞の北壁第3層大龕列のさらに上方の、しかも同一平面上に位置している。共に当時の有力者の家族による造立であるが、その目的はきわめて私的である。早世した息子を思う尉遅氏と、出征した息子の無事を祈る太妃高氏、この2人の母たちは北壁に整然と開かれつつあった大型龕ではなく、あえてその上の壁面に中型龕を注文した。おそらく早く完成させて供養したいという気持ちからであろう。元詳龕の発願時にはすでに第3層とそのすぐ上の尉遅氏龕の位置は定まっていたはずであるから、古陽洞の開始時期は太和18年12月よりやや遡ることになる。従って、伊開山石窟寺の開始は、新都建設が始まる493〜494年頃と考えてよいであろう。
4古陽洞―-貴族・僧尼・庶民の集合石窟―
古陽洞は龍門西山の南寄りに位置し、龍門で最初に開かれた石窟である(挿図5)。また、龍門の優れた書法の造像記を集めた「龍門二十品」のうち19品がこの窟にあることでも知られる。内部は幅7メートル、奥行き13.5メートルの長方形で、天井の高さは11メートルに及ぶ。正壁のかなり高い位置に、ほっそりとした姿で衣を中国風に着け禅定する本尊如来坐像、両脇には衣の裾を長く引く菩薩像がしなやかに立っている(挿図6)。左右の壁面は3層を成し、各層ごとに左右各4つの大龕(ただし、第1層は北壁に3龕、南壁に2龕のみ)を配し、ドーム状の天井は窟頂まで中小龕と千仏で覆われている。
龍門石窟研究所の最近の調査によれば、古陽洞に残る造像題記は686件(千仏の題記も含む)に上り、北魏の年記が多数認められる。これらの内容から推定すると、古陽洞は洛陽遷都(493―494年)の頃からまず第3層(上層)とその周辺の中小龕が開かれ、505年頃までに天井部諸龕や正壁三尊像が完成した。その後、509年頃から床面を掘り下げて第2層(中層)、さらに517年頃から第1層(下層)が造られたが、526年頃から工事が停滞し、結局第1層は工事半ばで中断され、追刻龕で覆われていった。
古陽洞の開創状況を考える上で重要な銘文は、北壁第3層の入り口寄りの大龕に付された太和22年(498)「比丘慧成造像記」(始平公造像記)である(挿図9)。銘文は仏龕東側の石碑形の中に陽刻文字で入念に刻まれ、書家や撰文者の名も記すなど碑文の体裁に近い。内容は比丘の慧成が国家のために石窟を造営し、亡父の使持節光禄大夫洛州刺史始平公のために石像―区を造るというものある。慧成の父「始平公」に該当する人物は史書中に見当たらないが、貴顕の人物であることは疑いなく、出家した慧成が中心となって石窟を開き、寄進を募っていったのであろう。
さて、古陽洞に集まった寄進者たちは王族、功臣、地元の役人、比丘、比丘尼など、実に様々な階層の人々であった。例えば、王族関係では前出の北海王元詳とその母太妃高氏、広川王祖母太妃候氏(広川王賀蘭汗の妻》、安定王元燮(景穆帝の孫。元燮が511年に寄進した交脚菩薩龕の題記部分は、現在大阪市立美術館の所蔵で、今回の展覧会に出品されている。斉郡王元祐(文成帝の孫)など。功臣では前出の丘穆陵亮の夫人尉遅氏、勇猛な武将として知られる楊大眼(仇池鎮の氏族出身)、孝文帝の南伐功を挙げた雲陽伯鄭長猷(鄭氏は栄陽の漢族の名家)など。さらに解伯達(伊闕の警備官)、魏霊蔵(陸渾県の功曹)、孫秋生(新城県の功曹)など洛陽周辺の役人。比丘では古陽洞開窟の推進者と目される慧成、北海王母子との関わりが深い法生と慧楽、慧暢、慧集、恵感、道匠、さらに比丘尼の法文、法隆、法行、法慶など尼僧や女性信者の名も多い。また、これらの中には邑義と称される団体の寄進も多く、邑師(教化僧)、邑 (つづく)、
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