中国と日本の絶景

 情報更新は2021年9月12日

 

 

 

    

  シルクロード文化遺産 漢代函谷関  

Site of Hangu Pass of Han Dynastry in Hena Prof.

 

 

 

行く経路:飛行機で河南省洛陽市まで、そこから観光バスで新安県まで51.5`

 

漢函谷関(かんかんこくかん)

函谷関(かんこくかん)は、中国河南省では3つあります。河南省洛陽市新安県の「漢函谷関」、河南省霊宝県の「秦函谷関」と河南省南省三門峡市霊宝市の「魏函谷関」です。

漢函谷関(かんこくかん)は、「新関」とも言われる、現在の河南省洛陽市新安県城関鎮東関村に位置する。華北を東西に分かつ境界函谷関は、華北を東西に分かつ境界ともされた。 この関より西を関中といい、以東の中原とを結ぶ通路にある、古くからの要衝であった。多くの戦闘が行われ、さまざまな故事の舞台としても知られている。新安の函谷関(新安県漢代函谷関)は世界遺産「シルクロード:長安-天山回廊の交易路網」の構成資産である。

 

漢関:新安の函谷関、即ち漢の函谷関(新関) 河南省洛陽市新安県城関鎮 紀元前114年

  新安県の函谷関、前漢の武帝の元鼎3年(紀元前114年)に、旧関の東約100キロメートル、黄河の支流洛河上流部の畔( 北緯34度43分13.73秒 東経112度9分57.44秒、現在の河南省洛陽市新安県城関鎮に新しく作られた。2層の楼閣と、3重に張り巡らされた高さ66メートルの城壁で構成されていた。前漢時代は国都長安を守る東の防壁であり、後漢時代は国都洛陽を守る西の防壁(洛陽八関のひとつ)となった。 函谷関の「移転」について、唐代(8世紀)に記された『通典』は以下のような説話を載せる。漢の武帝に仕えた楼船将軍の楊僕(宜陽県の人)は多くの功績を立てた人物であったが、「関外」の人であることを恥じ、家財を供出して関を東に移すことを請うた。これにより元鼎3年(紀元前114年)、新安県に関が移されたという。 『通典』によれば、曹魏の正始元年(240年)に弘農太守孟康の建言によって新安の函谷関(の関治)は廃止され、移転した。 6世紀、長安に都した北周が、北斉に対峙するために前線基地を設けた(『通典』には、故函谷関を改めて通洛防とした、とある)。 明・清期には関楼が設けられた。1926年、北洋軍閥(北京政府)内の武力衝突により損傷した際も、特別に資金を出して修復された。毛沢東時代の1958年、大躍進政策の一環として、土法炉を使用した「全人民大製鉄・製鋼運動」が開始され、河南省でも大規模に製鉄事業を展開することになった。新関の楼閣は土法炉建設用の煉瓦を採取するためにほとんどが解体され、楼閣内に保管されていた石碑・文献など多くの歴史的資料も失われた。 東関村にある函谷関の遺跡は、2008年より世界遺産登録を目指した環境整備が進められた。2012年から2013年にかけて発掘調査が行われ、城壁・古道・建築遺構が確認された。 漢代の函谷関は「シルクロード:長安-天山回廊の交易路網」の一部として世界遺産に登録されている。

 

秦関:即ち秦の函谷関(旧関) 

紀元前361年河南省三門峡市霊宝市函谷関鎮王村にある。紀元前361年、戦国時代の秦の孝公が東方からの侵入を防ぐため、王都の櫟陽(れきよう、後の咸陽・長安郊外、現在の陝西省西安市閻良区)の東、渭河と合流する黄河の最後の大屈曲、潼関から下流約70キロメートルの地点、南北から山脈が迫る峡谷の地( 北緯34度38分19.23秒 東経110度55分16.59秒、現在の河南省三門峡市霊宝市函谷関鎮王村に作られた。3層の楼閣2棟があったという。 紀元前318年、楚・趙・魏・韓・燕の5国合従軍が函谷関を攻撃したが、秦の樗里疾が撃退した(函谷関の戦い (紀元前318年))。 紀元前241年、嬴政(後の始皇帝)は、楚・趙・魏・韓・燕の5国合従軍と函谷関で戦い、これを退けた(函谷関の戦い (紀元前241年)。 秦末の反秦戦争では、劉邦軍は守りの堅い函谷関を避け、南の武関から関中に侵入し、咸陽を陥落させた。その後の楚漢戦争で項羽軍に破壊された。

「函谷関」の名を持つ関はもともと河南省の霊宝にも置かれていたが、漢代に東へ約150km離れた洛陽付近の新安に移転したため、大きく分けて2か所に「函谷関」がある。霊宝の函谷関を「旧関」「秦函谷関」、新安の函谷関を「新関」「漢函谷関」などと呼んで区別している。

旧関付近で、黄土層の切り立った崖の中を数キロメートルにわたって街道が通る地形が、あたかも函の中を行くのに似ているとしてこの名が生まれた。 『水経注』や『元和郡県志』には、崤山から潼津にかけての地域を押しなべて「函谷関」と呼ぶ、と記されている[5]。この地域の関塞は時代や政治状況によって数度にわたって移転したり、複数の関塞を併用していたりしている。歴史地理学・考古学者の塩沢裕仁は、「桃林塞」「函谷関」「潼関」が一つのものとして理解され、現在の潼関県から河南省三門峡市霊宝市までの広範な地域が「函谷関」と称されてきたことに注意を促している。 文学的には「函関」などの名称も用いられた。

「旧関」については「古関」「故関」、「周函谷関」「秦函谷関」などの名称も用いられる。       なお、同一エリアの黄河畔(現在の河南省三門峡市霊宝市函谷関鎮孟村)には「魏函谷関」もあった。

前漢代に「函谷関」が新安に移転するが、これは関治(関を管理する行政機関)の移動を意味しており、旧関治所には弘農県(中国語版)の県治が置かれた。旧関を通る道路は、曹魏による新道建設(後述)などもあってか衰微した。唐代に編纂された『元和郡県志』巻二では旧関に触れる中で「今大道路は北にあり、もとツ束の要に非ず」と記しており、主要交通路としては使われなくなっていた。ただし、老子ゆかりの地であるとされることから唐の開元年間には付近に道観「太始宮」が創建されるなどしている。王村梁家溝東口に南北1300-1800m、東西900-1000mの不規則な長方形の遺構が検出されている。1992年東門の門楼が復元されたが、遺跡保護の観点から東門遺構直上は避けられ、37mほどずらされている。王村付近は「函谷関古文化旅游区」として整備された。

 

魏関:魏の函谷関: 三門峡、今は水没さらた

後漢末年、曹操は潼関の戦いや陽平関の戦いに際して、山中を進む古道が狭隘なことから、食糧輸送のための新道(運漕道)を古関の北10里の黄河河畔に開いた。その後、弘農太守孟康 (zh:孟康 (三國)) によって運漕道に関所が置かれ、当初は「大崤関」「金関」と称され、のちに「新関」「魏関」「魏函谷関」などと呼ばれた。その後廃墟となっていたが、康煕18年(1679年)に霊宝県令の江蘩が再建した。光緒年間(19世紀末から20世紀初頭)には日本の岡倉天心、関野貞、桑原隲蔵らがこの函谷関を通過し、記録を残している。また、民国初年にも修築された。 魏の函谷関は日中戦争中に日本軍と国民党軍の激戦地となり、関は破壊されたという。その後、三門峡ダムのダム湖に水没した。

 

文学における函谷関

『史記』によれば、老子は、周を去って西方に向かう途中、この関で関令の尹喜に請われ、5000字に及ぶ上下二巻の書『道徳経』を著したといわれる。『史記』に記された、戦国四君のひとりである斉の孟嘗君の故事「鶏鳴狗盗」の舞台として知られる。それによれば函谷関は夜間閉鎖され、朝は鶏がなくまで開けないという決まりであった。秦の昭襄王から逃れようとしたものの関に阻まれた孟嘗君の一行は、鶏の鳴きまねが上手な食客がいたことで危地を脱したという。 日本の京都の祇園祭の山鉾のひとつ「函谷鉾」は、この故事に由来している。日本においては、箱根峠がしばしば函谷関にたとえられる。日本の関東地方を古代中国の関東に擬したことから。唱歌『箱根八里』(鳥居忱作詞、瀧廉太郎作曲)にも函谷関が歌い込まれている。

中国語紹介文:

漢函谷關又名“新函谷關”,距秦函谷關150公里,在今河南省新安縣東。漢武帝元鼎三年(114年),樓船將軍楊仆出資興建。據說,漢武帝時期曾遷山東一帶的豪強富賈至關中地區,關中腹地乃天子腳下。許多諸侯王被封於關外,樓船將軍也被封於關外,但是楊仆恥於做關外侯,因而向武帝請求捐盡家資建函谷關一座,以雪此恥。新建的函谷關就被稱為“漢函谷關”。現在早已廢棄,僅存遺址。

秦函谷關又名“函谷關”,位於河南省三門峽市靈寶市函谷關鎮王垛村。該關西據高原,東臨絕澗,南接秦嶺,北塞黃河,是中國歷史上建置最早的雄關要塞之一。古代處於洛陽至西安故道中間的崤山至潼關段多在澗谷之中,深險如函,古稱函谷。戰國時秦孝公從魏國手中奪取崤函之地,在此設置函谷關。此關關城東西長7.5公裡、谷道僅容一車通行,素有“一夫當關、萬夫莫開”之說。公元前241年,楚、趙、韓、衛諸國合縱攻秦,至此敗還。現代此處有令尹望氣臺、孟嘗君雞鳴臺,老子著《道コ經》的太初宮等,太初宮已經成為國內外信仰者祭奠老子的重要場所。1992年,靈寶市政府按照原古關圖形,投資重建了關樓。這裡已成為知名旅遊景點。函谷關西據高原,東臨絕澗,南接秦嶺,北塞黃河,是我國建置最早的雄關要塞之一。 函谷關西據高原,東臨絕澗,南接秦嶺,北塞黃河,是我國建置最早的雄關要塞之一。

 

與函谷關有關的成語故事

紫氣東來  據《史記》記載:春秋末期,柱下史老子李聃看到周室將衰,西渡隱居。公元前491年,函谷關令尹喜,清早從家裡出門,站在一個土臺上(現瞻紫樓)看見東方紫氣騰騰,霞光萬道,觀天象奇景,欣喜若狂。忙令關吏清掃街道,恭候異人,果然,見一老翁銀髮飄逸,氣宇軒昂,並且倒騎青牛向關門走來。尹喜忙上前迎接,通報姓名後,誠邀老子在此小住。老子欣然從命,在此著寫了彪炳千秋的洋洋五千言《道コ經》。以後,函谷關一帶的門楣或春聯都刻寫“紫氣東來”,流傳至今,表示吉祥 。

 

仙丹救民  老子在函谷關著寫《道コ經》時,他的坐騎青牛被當地一老農飼養著。當時,函谷關一帶流行一種瘟疫,許多人為此斃命,郎中也無能為力。一天,老子的青牛不吃不喝,急壞了飼養人。他找郎中,郎中說人都看不好,更看不好牛,飼養人死纏硬磨讓給牛瞧瞧,青牛氣息奄奄,郎中讓人扶起,牛站不穩,只是咳咳不止後突然咳出一個肉團(就是現在人說的牛黃),牛才如釋重負,張嘴吃草。郎中大喜,忙將肉團拿回家中,泡制成小藥粒,發給有病關民。病人吃後馬上見輕。人們為了感激老子的青牛救命之恩,說這是仙丹。至今,靈寶還流傳有正月二十三為牛節的習俗。這天,家家門上貼著用黃紙剪成的青牛圖案,並寫上“新春正月二十三,天上老君煉仙丹,家家門上貼金牛,一年四季保平安”。

 

雞鳴狗盜 戰國時期,齊國的孟嘗君好客喜賢名聲很大,秦昭襄王早有所聞,想讓孟嘗君來秦共圖大謀。派其弟陽君到齊國為人質,請孟嘗君入秦為相,孟嘗君到秦後,遭到丞相樗裏疾的忌妒。樗在秦王面前進言陷害。後秦王反悔,欲殺害之,又恐遭人唾罵,暫將孟嘗君囚禁起來。回國後的陽君聞聽此訊,欲救孟嘗君去求幸姬。幸姬提出要孟嘗君已贈給秦王的狐白裘衣。後一門客從狗洞進入庫房,巡夜人聽有動靜,門客學狗叫,騙走巡夜人,盜得狐白裘衣,送給幸姬。幸姬才幫忙弄到出關文書,孟嘗君一行慌忙逃至函谷關,正值半夜,當時關規是“雞鳴開關,日落閉關”。後邊追兵將至,形勢危急。此時有一門客站在土阜上學雞鳴叫,周圍雄雞齊鳴,關吏忙開關門,孟嘗君一行匆匆出了函谷關。後來樗裏疾追到此處,孟嘗君已出關多時了。

 

終軍棄襦  漢景帝於公元前153年復置函谷關,下令用襦作為出入關卡的憑證。公元前140年,漢武帝劉徹詔舉賢士。當時濟南有一名叫終軍的人才華溢,十八歲時就被選為博士弟子,與少年才子賈誼齊名,並稱為“終賈”。一天,他從濟南步行趕往長安,行至函谷關,關吏驗過符後,交還給他。他棄之而行。關吏笑他無知。他說大丈夫過關圖個功名,不再用這一般人用的襦。後來,終軍果然得到了漢武帝重用,也任南越大使。重過函谷關時,關吏認出了他,說這就是當年棄襦過關的孩子,隨從大呼:“這是出使南越的大使,不許胡說。”關吏大驚,忙跪拜送出關門。以後,靈寶人教育孩子都肯說:“要長進,學終軍”、“有才能,當終童”。

 

 

 

西漢函谷関(新関)遺跡 photo by:  www.kuaibao.qq.com

 

 

 

 

 

 

 

西漢函谷関(新関)遺跡の銘板「関谷函漢」 photo by: www.blog.sina.com.cn

 

 

 

 

西漢函谷関上の展望台遺跡  photo by: www.news.zzedu.net.cn

 

 

 

 

 

河南省三門峡市霊宝市函谷関鎮王村にの秦函谷関(旧関)遺跡(紀元前241年)は

すでに水没された  photo by: www.dp.pconline.com.cn

 

 

 

百年前清代の秦函谷関(旧関)遺跡(水没された)

photo by: www.163.com

 

 

 

  

  

 

河南省三門峡市霊宝市函谷関鎮王村にある秦函谷関(旧関)は三門峡ダムに水没されたために再現した遺跡公園   photo by: www.you.ctrip.com

 

 

 

 

河南省三門峡市霊宝市函谷関鎮の遺跡公園中の老子像、伝説より、老子はここで函谷関通関のために「道路経」を書いた。そのあとは老子行こう不明。伝説よりは空を登った。 像は2011年3月18日落成、高さ28メートル、重さ60トン、材質は紫銅を金箔はく、時価は2588万人民元。でも、老子の像は、最大ではなかった。最大な老子像は、北京西南86キロの房山区聖蓮山で2011年落成した57メートルの老子像。台を除いて像の高さは39メートル、中国伝統文化基礎の庶民「三教九流」を象徴する。  Photo by: www.meipian.com