唐都・長安の大明宮
大明宮(たいめいきゅう)は、唐の都・長安の北東にあった宮城。現在の陝西省西安市の北郊外太華南路に位置する。大明宮は、太宗が父の高祖のため634年に建設を始め、高宗が大規模に増築して663年に太極宮からここへ朝政を移し、以降904年までの240余年にわたり17人の皇帝が起居し政務を執る唐王朝の政治中枢となった。太極宮、興慶宮と共に長安の“三大内”を成す。
1957年より遺跡の発掘が始まり、現在その跡地は大明宮国家遺跡公園として一般に開放されている。 長安城の北東、首龍原という丘陵地に造られた敷地は南北2256m、東西1674m、総面積は3.2km2あり、周囲を城壁が囲んでいた。敷地は北東部分が欠け完全な方形ではないが、これは地形の制約によるものである。敷地の南北中心軸上に、正殿の含元殿(外朝)、宣政殿(中朝)、紫宸殿(内朝)が建ち、合わせて三大殿と呼んだ。宣政殿から東西に延びる隔壁で敷地は南北に分かれ、南半分は貴族や役人が出入りする宮殿区(前朝、政務地区)、北半分は皇帝のプライベート空間である園林区(内廷、居住地区)になっていた。
丹鳳門 敷地の南正面に位置する、大明宮の正門。上部の門楼(丹鳳楼)では皇家の赦令配布、宴会大典も行なわれた。662年に完成し、東西200m、奥行き40m、5つ設けられた門道の幅はそれぞれ9mあり、隋唐を通じて最大級の規模を持っていた。門道が5つもある門は大明宮ではここだけで、皇帝用の格の高い門であったことがうかがえる。“丹鳳”とは赤い鳳凰、すなわち朱雀を意味し、「天下安定ならば赤い鳳凰が現れる」という古籍の思想に基づいている。
含元殿 大明宮の第一正殿として、元日や冬至の儀式、改元や即位の儀式、外国使節の謁見、受賀、大赦、閲兵などの国家儀式を行なった、当時の長安の代表的建築物。662年から663年にかけて造営され、基壇は東西200m、南北100m、高さ15mで、中央に主殿があり、東に翔鸞閣、西に棲鳳閣を、廊と角楼で繋げていた。発掘調査により、主殿の正面に龍尾道は無く、主殿への昇降は翔鸞閣と棲鳳閣の基壇から曲がりくねって進んでいたことが分かった。同様の構造は日本の平城京の第一次大極殿(奈良時代前半)にも見られ、含元殿からの影響がみてとれる。
南側の広場の東西には、出仕した役人たちが広場に整列する前に待機するための長大な朝堂があり、ほか登聞鼓、鐘鼓楼が配置されていた。殿前から丹鳳門までの間には630m2の広場が設けられ、皇帝専用の道も造られていた。
含元殿は、玄宗が臨席した753年の元旦朝賀の儀式で日本の遣唐大使の藤原清河と副使の大伴古麻呂が新羅の使節と席次を争った故事の舞台として日本では良く知られる。
宣政殿 大明宮の第二正殿で、平時に文武百宮が皇帝に謁見する場として使われた[8]。含元殿の真北300mに位置し、その間には宣政門があったほか[8]、古籍によれば門下省、史館、弘文館、少陽院、昭徳寺などがあった。
紫宸殿 大明宮の第三正殿で、内朝の議事処として皇帝の日常生活の場という内宮的性格を持ち[8]、大臣がここに召し出されることは“入閣”と称し非常な名誉とされた。宣政殿の真北95mに位置し、その間には紫宸門があった。東には浴堂殿、温室殿、西には延英殿、含象殿があった。
太液池 園林区の主要な要素をなす池。紫宸殿の北側の窪地に造営され、大きな西池と小さな東池が東西に連なって瓢箪形をしており、西池は東西484m、南北310mの大きさで、中央やや北寄りに蓬莱島という島があった。 文献資料では太液池の岸に沿って千間の廊下が巡らされていたとあり、発掘調査でもその跡が確認された。池の底から発掘された建物の壁の破片には、漆喰や緑色塗料が塗られていたり、壁画が描かれているなど、池周辺の建物が豪奢に装飾されていたことがうかがえる。
蓬莱島の南岸には小さな庭があり、おそらく船着場で池の中に歩み出るような施設があったと思われる。2001年-2005年の発掘調査では蓬莱島の西側にさらに一つ中島が見つかり、文献資料で「蓬莱三島」という記述が見られることから、東池にも中島があったと推測される。
麟徳殿 近臣や外国の使節の招宴など、皇立の迎賓館として使われた施設。664年-665年に太液池の西側に建てられ、面積10,000m2に及ぶ広大な施設で、基壇上に、礎石立ち・瓦葺き・切石敷きの床の、前殿・中殿・後殿が接するように並びたち、漢詩で「三殿」との呼び名が見られる。主殿である中殿は景雲閣と呼ばれた総柱式の楼閣で、前殿の南側には裳階が付き、後殿の東西に残る高い基壇には都儀楼などが建っていたとみられる。
三清殿 皇立の道観(道教寺院)。敷地の北西隅に、南北73m、東西47m、高さ14mの基壇が残り、その上に複数の建物を備えた大規模な施設だったことがうかがえる。文献によると皇帝はここに仏教の和上も招き、道士と問答を競わせたという。
清思殿 太液池の東、左銀台門との間にあり、皇帝が日常生活で使用した。『旧唐書』によると壁には金箔・銀箔を施した3000枚の鏡が懸けられていたといい、発掘調査で実際に大量の鏡が発見された。
翰林院 文官が常時控え、詔書を起草したり、皇帝が作詩するときの文献を準備するなど、皇帝直属の官署となっていた。西面城壁に西接する幅55mの夾城にあり、翰林門を通じて大明宮と行き来できた。
含光殿 大明宮の西に位置し、発掘調査により広場と石碑が発見され、広場がポロ競技に使われていたことが分かった。
歴史淵源 唐初において皇帝の住居は隋王朝が大興城(長安城)の北縁に築いた太極宮に置かれていた。626年に太宗が即位したのち、玄武門の変での骨肉の争いで息子への疎ましさを募らせた父の高祖は629年に西北方の大安宮へ遷ったが、632年に監察御史の馬周は「(大安宮は)なお卑小と為し、四方の観聴に於いて足りないところがある。宜しく高大(の建物)を増修し、これを以て中外の望と称す」と太宗に奏上し、太宗はこれを容れ、孝の教えに基づき「上皇(高祖)の清暑の所と為す」として、父のために新しい宮殿の建設を命じた。建設地は太極宮のすぐ北東の、後園の射殿の地とされ[3]、そこは夏に蒸し暑くなる長安の低地に比べると過ごしやすい高燥の地で、風水学的にも宮殿建設の好適地だった。建設は634年に始まり、まず“永安宮”と名付けられ、翌年正月に“大明宮”と改名されたが、その年に高祖が没したため、建設はその後ながらく中断された。
660年に武皇后(のちの武則天)は王宮建築家の閻立本に大明宮の設計を命じた。
含元殿の建築風景 662年、風痺(風眩病)に苦しんだ高宗は、「(太極宮の)宮内が卑湿であるため、此(大明宮)に宮を置く」として大明宮の大規模な重建を始め[25]、翌663年には実際に大明宮へ移居しそこで聴政を行ない、同時に“蓬莱宮”と改名、670年には“含元宮”と改名した[25]。しかし高宗に続く中宗、睿宗は元の太極宮に常居し、武則天も即位後は太極宮に住んだが、洛陽へ遷都する前の一時期この宮殿へ移居した[25]。701年に含元宮から“大明宮”へ再び改名、以降この名が定着した。玄宗は714年に太極宮から大明宮へ移居したが、728年以降は南の興慶宮に常居した[25]。(以来、太極宮(西内)、大明宮(東内/北内)、興慶宮(南内)は長安の“三内”と呼ばれた。)唐王朝の政治中枢という役割を大明宮が固めたのは、安史の乱により荒廃した長安を757年に粛宗が復興させて以降である。
第一の正殿である含元殿は788年に地震で階段欄干が大きく破損、808年、817年、835年には大雨や大風で破損し、修復を重ねたが886年に遂に兵火で焼失した[7]。そして904年の洛陽遷都、907年の唐王朝滅亡により、大明宮は歴史の舞台から全く姿を消し[7]、20世紀までここは人家もまばらな一帯になっていた。
現代歴史メモ: 日中戦争のさなか、1938年6月に国民党軍が日本軍の進撃を妨げるため河南省花園口で黄河を決壊させ80万人の溺死者・2000万人の被災者を出した大氾濫(黄河決壊事件)により大量の流民が発生し、その群れは周辺の大都市へ流れ込み、西安では特に西安駅の北側、すなわち大明宮の跡地に住み着くようになった。以来ここは西安の中でありながら河南省の文化を色濃く受け継ぐ区域になった。
発掘メモ: 大明宮の遺跡の発掘は1959年から始まり、1961年に中国国務院第一段階重要文化財保護単位に指定され、1995年から1996年にかけて大規模な調査が中国社会科学院考古研究所の主導で行なわれた。
2008年に大明宮遺跡保護プロジェクトが開始され、当時は遺跡のかなりの範囲に民家や工場が建っていたが、約2500億円をかけて土地の収用と立ち退きが行なわれ、2010年に大明宮国家遺跡公園の整備が開始された。2014年には世界遺産「シルクロード:長安・天山回廊」の一箇所に指定された。現在は全国重点文物保護単位に指定されている。
中国社会科学院考古研究所は大明宮遺跡の城門、宮殿、宗教施設、官署の跡の発掘調査を[29]、今後200年をかけ計画的に行なう予定である。
公園 大明宮国家遺跡公園は2010年から一般開放された[4]。ここは中国で初の国家考古遺跡公園で、主要宮殿建築区、文物鑑賞区、科学体験区などで構成される[2]。公園部分は無料で、遺跡部分は有料になっている。
公園正面入口には丹鳳門の姿を推定復元した鉄骨製の丹鳳門遺跡博物館が建ち、内部で丹鳳門遺構の保存・展示、発掘された遺物の展示などが行なわれている。 含元殿前区西側に位置する考古探索センターでは、考古調査の実際や考古学と現代生活の関わりなどを双方向的に体験できる各種展示を行なっている。
含元殿の基壇は、版築を保護しつつ美観を与えるため煉瓦を組んでいるが、上部の壁や階段などは露出状態で展示している。 含元殿の北西部の大明宮遺跡博物館では、最新技術を活用しながら数々の唐代文物の逸品を展示し、大明宮と唐代文化の紹介を行なっている。2005年に公園の整備が始まる直前までこの遺跡上で暮らしていた人々の生活展示があるのも特徴的である。遺跡内に高層の現代建築が建つ違和感を無くすため、半地下式の構造になっている。
太液池は、池と島を取り囲むかつての庭園が歴史考証に基づいて復元されており、牡丹、菊、スモモ、薔薇、竹、アーモンド、桃、柿が植えられている。
中国語紹介之一
大明宮是唐代長安城禁苑,位於城東北部的龍首原,是唐帝國的政治中心,是世界史上最宏偉和最大的宮殿建築群之一。宮南部為前朝,以自南而北的含元殿、宣政殿和紫宸殿為中心組成。宮北部的內廷中心為太液池,周圍有三清殿等多處建築基址分布,內廷西部有朝廷宴會和接見外國使節的麟コ殿,殿基長130余米,ェ近80米。其上建有前、中、後毗連的三殿,周圍繞以回廊,規模十分宏偉。1961年公布為全國重點文物保護單位。是唐太宗李世民為他父親李淵修建的夏宮。工程未完,李淵已故。遂於貞觀九年正月改名大明宮。而後兩次易名,到神龍元年(705年)大明宮的名稱才固定下來。中國歷史上唯一的女皇帝武則天統治時期,把大明宮更名為“蓬萊宮”,並在此聽政。後來大明宮屢遭兵火的破壞,唐昭宗乾寧三年(896年)大明宮被大火焚毀。1957年〜1962年,中國科學院考古研究所對遺址進行考古勘察和發掘,1980年〜1984年進行了重點發掘,初步弄清、復原了大明宮遺址。 大明宮始建於貞觀八年(634年)。原是隋代禁苑的一部分,唐太宗後為其父李淵在該地修建的夏宮永安宮。貞觀九年(635年)李淵去世後,改稱為大明宮,又稱「東內」。唐高宗繼位後,認為原來居住的太極宮過於潮濕,便於龍朔二年(662年)對大明宮進行了大規模擴建,更名為蓬萊宮,並入住其中。鹹亨元年(670年)宮殿再次改名為含元宮,神龍元年(705年)復名大明宮。自唐高宗開始,大明宮成為國家的統治中心,歷時達234年。整座宮殿的規模宏大,建築雄偉,王維詩句「九天閶闔開宮殿,萬國衣冠拜冕旒」描繪了當時的盛景。中唐和晚唐時朱和黃巢先後據此稱帝。唐僖宗時,大明宮屢遭兵火,最終於乾寧三年(896年)被燒毀。數年後,因為戰備的原因,宮殿的遺跡也都被拆除,此後便成為一片廢墟。大明宮選址在唐長安城宮城東北側的龍首塬上,利用天然地勢修築宮殿,形成一座相對獨立的城堡。宮城的南部呈長方形,北部呈南ェ北窄的梯形。城牆東西ェ1.5公裡,南北長2.5公裡,周長7.6公裡,面積約3.11平方公裡。城牆南段與長安城的北墻東段相重合,其北另有三道平行的東西向宮牆,把宮殿分為三個區域。所有墻體均以夯土板築,底ェ10.5米左右,城角、城門處包磚並向外加ェ,上築城樓、角樓等。宮城共有九座城門,南面為左銀臺門;西面南北分別為右銀臺門和九仙門。除正門丹鳳門有五個門道外,其餘各門均為一個門道。在宮城的東西北三面築有與城牆平行的夾城,在北面正中設重玄門,正對著玄武門。宮城外的東西兩側分別駐有禁軍,北門夾城內設立了禁軍的指揮機關——「北衙」。整個宮域可分為前朝和內庭兩部分,前朝以朝會為主,內庭以居住和宴遊為主。大明宮的正門丹鳳門以南,有ェ176米的丹鳳門大街,以北是含元殿、宣政殿、紫宸殿、蓬萊殿、含涼殿、玄武殿等組成的南北中軸線,宮內的其他建築,也大都沿著這條軸線分布。在軸線的東西兩側,還各有一條縱街,是在三道向宮牆上開邊門貫通形成的。(駒智049)
中国語紹介之二
唐長安城的面積達83.1平方公裡,按中軸對稱布局,由外郭城、宮城和皇城組成。城內街道縱交錯,劃分出110座裏坊。此外還有東市、西市等大型工商業區和芙蓉園等人工園林。城市總體規劃整齊,布局嚴整,堪稱中國古代都城的典範。長安城平面呈長方形,東西長9721米,南北ェ8652米,周長36.7公裡。城牆ェ12米左右,高5米多,全部用夯土版築,城門處的墻段還砌有磚壁。目前城牆和其外側的城壕已基本被毀,僅在北面的玄武門和南面的安華門附近留有部分殘垣。長安城(外郭城)開十二座城門,南面正中為明コ門,東西分別為啟夏門和安化門;東面正中為春明門,南北分別為延興門和通化門;西面正中為金光門,南北分別為延平門和開遠門;北面的中段和東段分別與宮城北墻和大明宮南墻重合,西段中為景耀門,東西分別為芳林門和光化門。除正門明コ門有五個門道外,其余各門均為三個門道。據實測,明コ門址東西廣55.5米,南北長17.5米,每個門道ェ5米。特別是明コ們內的南北大街朱雀大街更是ェ達150米至155米。其他的不通城門的大街ェ度也普遍在35米至65米之間,而順城街ェ20米到25米。明コ門原有臺閣式門樓建築,唐末被朱全忠焚毀。宮城位於郭城北部正中,平面為長方形,東西長2820米,南北ェ1492米,周長8.6公裡。城四周有圍牆,南面正中開承天門(隋稱廣陽門),東西分別是延喜門和安福門,北墻中部開玄武門。宮城分為三部分,正中為太極宮(隋稱大興宮),稱作“大內”,東側是東宮,為太子居所,西側是掖庭宮,為後宮人員的住處。今天西安城內西五臺和北城外自強西路北側鐵路中學內的土崗則是為數不多的大興宮城遺址。皇城亦為長方形,位於宮城以南,其東西與宮城等長,南北ェ1843米,周長9.2公裡。城北與宮城城牆之間有一條街相隔,其余三面辟有五門:南面三門,中為朱雀門,兩側為安上門和含光門;東西面各一,分別為景風門和順義門。南面正中的朱雀門是正門,向南經朱雀大街與外郭城的明コ門相通,向北與宮城的承天門相對,構成了全城的南北中軸線。城內有東西向街道7條,南北向5條,道路之間分布著中央官署和太廟、社稷等祭祀建築。
宮殿
唐長安城有三座主要的宮殿,分別是太極宮(隋稱大興宮)、大明宮和興慶宮,稱為“三大內”。其中“大內”就是宮城中的太極宮,是隋朝和初唐時期的皇帝居所和朝會之地。太極宮東西ェ1285米,南北長1492米,面積約1.92平方公裡。宮內由南向北分為前朝、後寢和苑囿三塊區域。前朝的正殿為太極殿(隋稱大興殿),四周有廊廡圍成的巨大宮院,東西兩側建有官署。後寢的主殿是兩儀殿(隋稱中華殿),周邊有萬春殿、千秋殿、甘露殿、神龍殿、安仁殿等殿堂。苑囿位於宮殿最後部,有亭臺池沼等,其北的宮牆上有玄武門,著名的“玄武門之變”就發生在此。由於太極宮是隋文帝所建,所以裝飾等都較為簡樸。唐高宗繼位後,認為這裡比較潮濕,於是搬到了大明宮居住。大明宮位於太極宮東北方的龍首塬高地上,是一座相對獨立的城堡,可俯瞰整座長安城。宮殿建於貞觀八年(634年),從唐高宗開始的歷代皇帝都在這裡居住和處理朝政,稱為“東內”。宮城為中軸對稱格局,前部由丹鳳門、含元殿、宣政殿、紫宸殿等組成前朝的南北中軸線,後部以太液池為中心組成內庭,分布著麟コ殿、三清殿、大福殿、清思殿等數十座殿宇樓閣。整座大明宮東西ェ1.5公裡,南北長2.5公裡,面積約3.2平方公裡,是“三大內”中最大的一座。興慶宮位於外郭城的東部,原是唐玄宗早年任臨淄王時的藩邸,開元二年(714年)改名為興慶宮。開元十四年(726年)進行了擴建,合併周圍的邸宅和寺院,於十六年(728年)竣工,稱為“南內”。天寶十三年(754年)又築宮牆和城樓,形成了一座小型城堡。同時還附外郭墻建造了一道北至大明宮,南至芙蓉園的夾城,方便宮內人員來往潛行。唐玄宗和楊貴妃長期在此居住,盛唐後地位降低,成為安置太上皇和太後的場所。興慶宮南北長1250米,東西ェ1075米,周長4.6公裡,面積約1.35平方公裡,規模在“三大內”中最小。宮牆四面設門,正門興慶門在西墻偏北處。宮內以園林為主,且不按中軸對稱布局,因此具有離宮的性質。其南部主要是龍池,周邊有勤政務本樓、花萼相輝樓、沈香亭等亭臺樓閣。北部有興慶殿、南椏a、長慶殿、大同殿等一組宮殿。唐末興慶宮毀於戰火,1958年遺址改造為公園,並興建了阿倍仲麻呂紀念碑等。
外郭
外郭城內有南北向大街8條,東西向大街14條。街道的兩側都設排水溝,並種植榆、槐等行道樹。其中通往南三門和連接東西六門的六條大街是主幹道,ェ度大都在百米以上。最ェ的朱雀大街達155米,是城市的南北中軸線,以之為分界,城東屬於萬年縣,城西屬於長安縣。縱交錯的道路將外郭城分作了110坊(隋稱“裏”)。各坊面積不一,南北長在500-838米之間,東西ェ在550-1125米之間。每座坊的四周都築有圍牆,大坊一般開四門,內設十字街,小坊則開東西二門,設一街,街ェ都在15米左右。根據考古發掘了解,十字街將一坊分為四區,在每一區內都還有一小十字巷,把整座坊分成十六個小塊,分布著民宅、官邸、寺院和道觀等。各坊均採取封閉式管理,坊門有衛兵把守,晚間會實行宵禁,其中著名的裏坊有親城坊。長安城中遍布著佛寺和道觀,總持寺、莊嚴寺、興善寺、玄都觀等都占據整坊之地。其它著名的慈恩寺(大雁塔)、薦福寺(小雁塔)、青龍寺等也都擁有大片地皮。考古過程中還發現了城內的許多隋唐窯藏,其中何家村(興化坊)出土的271件金銀器,是中華人民共和國成立以來,出土唐代金銀器數量最多、價值最高的一批。外郭城內有東
市(隋稱都會市)、西市(隋稱利人市)兩座市場,各占兩坊之地。兩市大小幾乎完全相同,南北長約1025米,東西ェ約927米。市場有圍牆,開八扇門,內有井字形街道和沿墻街道,將市內分為9區。每個區都四面臨街,店鋪沿街而設,有飲食店、珠寶店和手工業作坊等。長安城的商業大都集中在這兩座市場,其它各坊內也有一些零散的商業設施。長安城內主要有四條溝渠,名龍首、清明、永安和漕渠,分別從東南西三面引渭河的支流入城,提供生活和環境用水。前三渠開鑿於隋初開皇三年(583年)、漕渠開鑿於唐天寶元年(742)。
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