日本お茶のルーツ
近江 梵釈寺

 

梵釈寺

 

 

 

鳥居?

 

 

 

 

中国茶の色

 

 

日本茶(宇治新茶)の色

 

   梵釈寺(ぼんしゃくじ)は平安時代からの古寺です。786年(延暦5年、唐徳宗時代)桓武天皇が創建しました。最初の名前は四天王寺、795年(延暦14年梵釈寺を改名しました。

 

  嵯峨天皇が815年(弘仁6年、唐憲宗時代)に近江に行幸した際にここで梵釈寺の住職永忠は茶を煎じてし奉った」という記録がありました。この記録は日本でお茶の記録の始まります。


 遣唐使が往来していた奈良・平安時代に、最澄(さいちょう)、空海(くうかい)、永忠(えいちゅう)などの留学僧が、唐よりお茶の種子を持ち帰って、近江の辺りで栽培始めました。このころのお茶は非常に貴重で、僧侶や貴族階級などの限られた人々だけが口にすることができました。

 

 日本には、お茶の記録はもう一つは、鎌倉初期(1191年)に京都の建仁寺の栄西(えいさい)禅師が宋から帰国する際、日本にお茶を持ち帰りました。栄西は、お茶の効用からお茶の製法などについて著した 『喫茶養生記(きっさようじょうき)』(1214年)を書き上げました。これは、日本最初の本格的なお茶関連の書といわれています。栄西は、深酒の癖の ある将軍源実朝に本書を献上したと『吾妻鏡(あずまかがみ)』に記してあります。栄西禅師のお掛け様で、お茶は、鎌倉時代から日本で大流行になりました。京都の明恵上人(みょうえしょうにん)が栄西より種子を譲り受け、京都栂尾(とがのお)に蒔き、宇治茶の基礎をつくるとともに、全国に広めていきました。

 

  しかし、日本のお茶は中国のお茶と大きい違いは、中国のお茶は、大きいん鍋で炒めて、渋みを柔らかくなり、日本のお茶は蒸した茶葉を揉まずに乾燥させたもの(碾茶=てんちゃ)でした。そして、中国のお茶は茶色、日本のお茶は緑です。

 

(凌焱 まとめ)

 


日中文化交流

情報更新は2014年7月7日

 

 


 

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