河北省承徳にある避暑山荘の
「澹泊敬誠殿」を琵琶湖畔で発見!

凌炎

澹泊敬誠殿」:正真正銘の中国河北省承徳市郊外の「避暑山荘」にある「澹泊敬誠殿(たんぱくけいせいでん)」を琵琶湖畔で見つけました:北京の北256キロの承徳の郊外には、清朝代々の皇帝の夏の離京「避暑山荘」があります。筆者は20数年前に、旅行したことがあります。しかし、その「避暑山荘」の「澹泊敬誠殿(たんぱくけいせいでん)」は、滋賀県の東近江市郊外の五個荘で発見。筆者は2009年5月のある日曜日、「1000円高速」を利用して、京都から渋滞なく1時間以内の竜王インターチェンジを出て8号線に沿って「観峰館(かんぽうかん)」を目指し、道路の側の広い敷地にある「観峰館」を見つけました。吹き抜けの高いエントランスホール、城のような展示室、可愛らしい「四合院」、膨大な数々な中国文化の関連展示品…すべて予想以上のものです。この観峰館は、「日本習字教育財団」(多分「日本漢字協会」と無関係だろう?)の創始者である書道家の原田観峰先生(1911〜1995))が長年にわたって集め得た中国文化関連の文物を常設している展覧館です。その中には、康煕帝の書斎「三希堂」を真似て展示しています♪…


これは琵琶湖畔で見つけました「避暑山荘」にある「澹泊敬誠殿」の側面写真




これは琵琶湖畔で見つけました「避暑山荘」にある「澹泊敬誠殿」の正面写真

政務がおこなわれていた世界遺産の避暑山荘の正殿「澹泊敬誠殿」場所:承徳市避暑山荘 空港:北京 、入門券:夏90元、冬60元 中国のサイトの説明では、避暑山荘の正殿にあたるのが、澹泊敬誠殿。1703年(又1710年の説もある)に建立されました。すべて楠の木でつくられていることから楠木殿とも呼ばれています。各大臣との接見など、おもな政務はここで行なわれていたそうです。中央に見える黄色のイスが、皇帝の座る玉座。すべて紫檀でつくられたというたいへん豪華な御座です。玉座の上部にかかる額、「澹泊敬誠」の意味は、諸葛亮の「無欲かつ明白なる理念をもたなければ、(国を)広く治めることはできない」という言葉に由来しているそうです。

麗正門を入り外午門・内午門とくぐると避暑山荘の正殿・澹泊敬誠殿がある。内午門前の広場は、歴代皇帝が承徳で狩りを行うに先立ち弓射の試合を行った場所で、門上には康熙帝直筆の「避暑山荘」の扁額が掛けられ、広場の東西両壁に乾隆帝御製の「閲射六韵」詩が刻まれている。澹泊敬誠殿は1710年(清の康熙49年)に建てられ、その後1754年(清の乾隆19年)にすべて楠を用いて建て直された。そのため「楠殿」とも呼ばれている。幅9間・奥行3間の大型建造物で面積は583平米、雨天の日には楠の良い香りが殿内に充満したという。殿内に掲げられている「澹泊敬誠」の額は康熙帝の御筆で、扉には蝙蝠や「萬」字、「寿」字などが精巧に浮き彫りされている。この建物は主に毎年の「万寿節」(皇帝の誕生日)やその他の慶事の折りに皇帝が王侯大臣や外国使節を接見するために使われ、1780年(乾隆45年)、乾隆帝の誕生祝いの為にチベットからやってきたパンチェン・ラマ六世もこの場所で乾隆帝に接見した。



これは世界遺産の避暑山荘の正殿「澹泊敬誠殿」の写真(中国河北省のHPから)

「三希堂」: 北京の故宮にの養心殿のなかでも、東側の東暖閣とならんで有名なのは西側の三希堂です。三希堂は、風流皇帝、乾隆帝が天下の名筆とされる王羲之の「快雪時晴帖」、王献之の「中秋帖」、さらに王cの「伯遠帖」の三帖、つまり「三希」を手に入れた喜びを込めて名づけた書斎です。三希堂は北側の次の間と主室を合わせても12平方メートル、南の窓に面している主室はわずか5平方メートルに過ぎませんが、乾隆帝はこの小さな、小さな書斎をこよなく愛し、四十数年にわたって、冬になるとここに入り、書斎の一角に置かれた紅木(マホガニー)の箱から王羲之らの書を取りだし観賞し、また詩を作って楽しみました。三希堂の壁には、乾隆帝御題の「三希堂」という横額と「懐抱観古今、深心託豪素」という対聯が掛けられています。南側は間口いっぱいの一枚のガラス窓で、窓ごしに庭を望むことができます。暖かい陽光の差し込むこの質朴な小さな書斎に一人静かに座るときが、乾隆帝にとって最高のひとときだったのかも知れません。




これは琵琶湖畔で見つけました「避暑山荘」にある「三希堂



日中文化交流
情報更新は2009年6月13日



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