関東の儒学教育遺跡の足利学校

情報更新は:2014年8月12日




 

 

  足利学校は、日本で最も古い学校としてしられでいます。その創建の年代は、いろんな説があります。奈良時代か? 平安時代?鎌倉時代か?歴史が明らかになるのは、室町時代の永享11年(1439年)。関東管領上杉憲実が、学校を最興しました。足利学校は、応仁の乱以後、引き続く戦乱の中も、続けていました。生徒は三千と言われていました。明治5年、廃校になりました。

 

 

学校の門 (キューピーの散歩同好会HPから)

 

 

 

                      

                        方丈(教室)と庫里(食堂)

 

 

   上杉憲実が関東管領になると、学校を整備し、学校領とともに孔子の教え「儒学」の五つの経典のうち四経の貴重な書籍を寄進し、鎌倉から禅僧快元(かいげん)を招き初代庠主(しょうしゅ:校長)とし、学問の道を興し、学生の養成に力を注ぎました。その後は、代々禅僧が庠主になりました。

  また憲実の子、憲忠(のりただ)は五経のうち残りの易経「周易注疏」(しゅうえきちゅうそ)を、子孫の憲房(のりふさ)も貴重な書籍を寄進するなど、戦乱の世にもかかわらず、学問に意を注ぎ学校の基礎を固めました。

 室町時代には、儒学、特に「易」について学校に学んだ僧は非常に多く永正年間(1504〜1520)から天文年間(1532 〜1554)には学徒三千といわれ、事実上日本の最高学府となり、第7世玉崗瑞璵九華の30年間にわたる在任中もおおいに発展しました。このことは天文18年(1549)フランシスコ・ザビエルによって「日本国中最も大にして最も有名なる坂東の大学…。」と海外まで伝えられました。

 室町時代の最後の庠主は、第9世閑室元佶三要で徳川家康の信任が厚く、徳川家康が京都伏見に建立した瑞巖山圓光寺の開山となり、徳川家康の下で「詩経」の講義、漢籍の出版、近畿地方の寺院の統制、外交文書の作成等に活躍しました。このようなことから閑室元佶と家康との結び付きが強く、足利学校は幕府より百石の朱印地を賜りました。

孔子石像

 

 

孔子座像 (キューピーの散歩同好会HPから )

 

足利学校の孔子廟(聖廟)は寛文八年(1668年)に造営されたもので、中国は明時代の聖廟を模して建てられました。現存する孔子廟としては日本最古のもので、国の史跡に指定されています。

 

孔子廟という大成殿 (キューピーの散歩同好会HPから )

 

儒学の祖である孔子が祀ってあり、建物の名称は大成殿。清楚で簡潔な聖廟の中には孔子坐像があり、また足利学校を創建したと伝えられる創始者の小野篁(おののたかむら)像が訪れる人々を迎えてくれます。

  今は、史跡足利学校の伝統行事「釋奠」に子供のころから関わることにより、足利学校への関心を持つとともに、郷土愛を育み伝統文化を継承していくことの大切さを学ぶことを目的に「こども釋奠」実施します。

 

 

      史跡足利学校は、孔子と孔子の弟子たちの言行をまとめた「論語」を中心に、『論語義疏」の複製から、史跡足利学校編の『論語抄』まで、「論語」に関するさまざまな史料を紹介します。

 

 

子曰: 過則勿憚改

 

子曰: 見義不為 無勇也

 

子曰: 己所不欲 勿施於人


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